軍歌ばかりが耳につく戦争末期に、勤労動員先で聴いたシャンソン、《聴かせてよ、愛のことばを》に衝撃を受ける。戦後、ほとんど独学で作曲を修得する。


詩人・美術評論家の瀧口修造と出会う。「新作曲派協会」を経て「実験工房」の時代へ。ラジオドラマ、演劇のための音楽、映画音楽に意欲的に取り組む。


《弦楽のためのレクイエム》(1957)をストラヴィンスキーが、《樹の曲》(1961)をコプランドが絶讃、武満作品がアメリカに紹介される。映画音楽作曲家としても高い評価を得、数々の賞を受賞。草月アート・センターで積極的な活動を繰りひろげる。


映画『怪談』(小林正樹監督、1964)、《ノヴェンバー・ステップス》(1967)で成功。映画音楽、コンサート作品ともに世界的評価を得る。


カナダ、フランス、イギリス、オランダで次々に作品が紹介される。現代音楽祭のプロデューサーとして活躍。EXPO'70「鉄鋼館」音楽監督に。「今日の音楽」を企画、以後20年続く。


海外からの委嘱、海外の音楽祭からの招聘が増える。「国際作曲委嘱シリーズ」監修者に就任。


評価が定まっても安住することがなかった。東西を超えた存在として、世界の音楽界で要請され、各国を飛び回る日々が続く。