ROUGE ルージュ
 
  わたし、欲しいものがないんです 5月の風とともに舞い込んだ、はじまりの予感。暗くたいくつな世界、いま目覚めよ! 著者初の、恋愛小説  
著者
柳美里
出版社
角川書店
定価
本体価格 1200円+税
第一刷発行
2001/3/5
ISBN4−04−873169−6

1

都会を飛んでいる紋白蝶を見ると不安な気分になる。だれかが撮影で使ったのだろうか、とスタジオづきのライトマンの圭は首を傾げて蝶を目で追いながら、なにかといえば生き物を使いたがる外岡の顔を思いうかべた。
紋白蝶を三百匹用意させて、ライティング、モデルのポーズを決めて合図をし、蝶が放たれた瞬間にジャッターを切る。蝶は綿雪のようにしか写らず結果的にその写真は使われなかったとしても伝説は残り、外岡はますます名声を高めていく−、外岡ならやりかねないと圭は思った。

紋白蝶は高く舞いあがろうと試みては地面すれすれまで落下するといった危うさで、ふらふらとレンガの壁に沿って飛んでいる。もうすぐ死ぬな、と蝶から目をそらしてスタジオのドアを押したとき、飛びだしてきた男とぶつかりそうになった。
小さな叫び声をあげた圭は、すみませんとっぷやいたが、男はケイタイを耳に押しあてて話しつづけている。

「裏に非常階段あるだろう。ある。鍵.かかかった鉄の棚をよじの,ほるんだ。のぼれ。七階の七〇三号室に行くんだ。チャイムを鳴らす。そう、鳴らせ。たぶんいないだろうが、鳴らしつづけろ。いないことを確認したら、いいか、もしあとでいたなんてことになったらクビ、クビだ。いないことをはっきりと確認したらケイタイに電話をくれ」

門馬はとなりで聞き耳をたてる人間がいてもぜったいになにをしゃべっているかわからないテクニックを身にづけているのか、腹話術師のようにほとんど口をひらかない。落ちつきはらっているように見えるが、門馬の視線はロビーにあるすべてのものとこすれあって火花を散らし、もし門馬がにらみつければ燃えあがってしまいそうなほどに殺気だっていた。

北原佑のマネージャー、門馬は進退きわまっていた。北原はクリスティーナの新製品六色のスーパーリップスティック〈ジネレール〉のイメージキャラクターに選ばれ、今日活字媒体の広告とポスターの撮影をする予定だったのだが、すでにスタートの時間を一時間もオーバーしている。

昨日「週刊現代」のカバー撮影を終えて編集者を交えて食事をしたあと、広尾のマンションに彼女を送りとどけたのはたしかに十時前だった。この一週間は今日の撮影に備えてたっぷり八時間は眠れるようスケジュールを組んできたのだから寝すごすなんてまったく考えられないことだ。

北原が現れたら、撮影スタッフの前で涙ぐんであやまるようにいおうとガラス戸越しに外に目をやったが、雨があがったばかりの舗道にはひとつ子ひとりいない、門馬はふうっと吐いたため息をそのまま吸いこんで深呼吸してからスタジオのドアを押した。

外岡の高笑いが耳に飛びこんだ。グラビアの打合せだろう、スタジオの隅の応接セットに座っている編集者らしきふたりの男と一見してマネージャーだとわかる小太りの中年女が追従笑いをあげている。門馬はほっとして、スタジオの一角に仕切られているメイクルームに向かった。
ドァを開けてなかに入ったとき、壁鏡に背を向けて座っている伊勢と目が合い、門馬はあわてて視線をそらした。

クリスティーナのアートディレクターの伊勢はちらりとだけ門馬に視線を送ったが、ダナ・キャランのスーツの上着を脱ぎ椅子にかけると、ふたたびスタイリストの峰の話に耳を傾けた。
「あたしね、スタイリストやる前インテリアの会社にいたんですよお。そのころ、いまいっしょに住んでる彼と運命的に出会って、もういくらいっしょにいても、もっといたい、離れたら、離れてるあいだに死んじゃうかもしれないって感じになつちゃって、会社に電話して、具合が悪いってさぼって、ずっと部屋にふたりでいて、会社、カットされちゃったんですよぉ。

それでもぜんぜん後悔しなかったもん、あたし。給料ほとんど貯金してたから、かなりあったんですよぉ。貯金ゼロになるまでふたりで遊んで暮らしたの。意外と恋をしてると食べなくても平気なんですよ」
伊勢は口もとをたたきながらあくびをし、「峰さんって、いまなんキロぐらいあるの?」
なんであれ自分に関することであればいくらでもしゃべりまくる峰にうんざりしながらも質問 した。
「やだあ、伊勢さん、女性に体重と歳を訊いちゃだめなんですよ。でもいっちゃお、三十過ぎてからとめどなく太って、はたちのときからすると、プラス十三キロかな」

「何キロ」
「六十三キロ」
「え一つ、そんな太ってんの?見えないな」
伊勢は微笑みで顔をやわらげながら内心、おまえの体重が百キロを超えていたとしてもどうでもいいことだ、と毒づいた。
「ぜん、ぜん運動してないからもう腰にきちゃって、歳だなあ」

「おれも腰は相当きてる、ハリだのカイロプラクティックだのいろいろ行ってるんだけどね」
「いい先生いますよ。東洋医学なんですけど紹介しましょうか。先生は困ったひとのためにはど

こにでも飛んでいくんです。技術もたしかだけど、たくさん愛を持っているひとなんですよぉ。あたしいつも先生に元気もらってるんです」
峰の話を聞きながしている門馬がメイクルームを出ようとするたびに、伊勢は冷ややかな視線で門馬を釘づけにした。いまだにやってこないタレントのマネージャーが、みなにあやまるでもなく突ったっていることが信じられず、今日の撮影は中止になるかもしれないという不吉な予感が刻々とふくれあがっていた。後宮と話しあわなければならないな、伊勢は上着をつかんでひざの上に置いた。

「峰さんオカルトだからな、いっつも霊とか神とかサイババとか手かざしとか気功とか、そういう話ばっかり」
「先生はオカルトとは関係ありませんから」
「じゃあ、今度、ぎつくりきたら診てもらうよ。ゴールデンウィークどっか行くの?」

「行きたいんだけど、忙しくてねえ。ああ、トヨタのCM撮りでプーケットに行きますけど、伊動力さんは?」
「さあ、仕事かな?ジネレールが軌道に乗るまでは休めないな。じゃああとで」
伊勢が腰をあげると門馬はあわててあとを追い、ふたりはメイクルームを出た。

「じきくると思います」門馬は伊勢の背中に弱々しい声を投げかけた。
「何分後に?」伊勢は振りかえらずに、後宮のアジスタントの矢嶋を目にしで声をかけた。
「後宮さんは?」

「事務所で時間の延長ができるかどうか交渉してます。門馬さん、ボスが捜してましたよ」矢嶋はクリエイティブディレクターの後宮をボスと呼んでいた。
伊勢はドアを押して外に出た門馬を一瞥だにしないで、
「おれのジステム手帳、頼んでくれた?」

「頼まれたことでミスしたことあったっけ?もうとどくわよ」矢嶋はぺろっと舌を出して事務 所に向かった。
外へ出ると、朝会社にくるときにふっていた雨はあがり、灰色の雲が猛スピードで流れていた。
いらなくなった傘の先でまだ乾いていない舗道をときおりつつきながら大股で歩きはじめると、五月の風がさざなみのように吹きぬけスカートを脚にまとわりつかせた。半袖のレモンイエローのワンピースに白のカーディガン、パンプスはアップルグリーン。里彩は今日の服装が気に入っていた。

小学五年のとき母親にはじめてねだって買ってもらったワンピースもこれと同じ素材、インド綿で、色は深緑だったが、褪せで白っぽくなるまで十年間は着ていた。
街路樹は鈴掛で、夏ともなれば大きくひろがり濃い緑色になるのだが、いまは薄緑でまだ小さく、街路に雨のしずくとやわらかい葉影をふるいおとしている。ふいに、五月だもの、五月だもの、というフレーズが浮かんだ。

歌謡曲だったか、高校の現国の教科書に載っていた詩だったか、もしかしたらいま浮かんだ自分のでたらめな言葉なのかもしれない。五月だもの、五月だもの。
なにか破裂しそうなエネルギーがからだのすみずみからソーダ水の気泡のように湧きたってくるのを里彩は感じた。

今年の春、デザイン専門学校を卒業した谷川里彩は、ぜったいに落ちるとわかっていながら入社試験を受けたクリスティーナに合格した。専門学校の就職担当の主任は、里彩がどんなに否定してもコネ入社だと信じて疑わなかった。

そして希望通りに宣伝部制作課に配属されて一カ月になるが、雑用を頼まれるたびに思わず、「ありがとうございます」と声をあげてしまい、上司にたしなめられるのだった。
もしかしたら撮影現場を見学できるかもしれない。里彩はいまにも駈けだしそうな両脚をなだめて、雲の切れ目からのぞいた淡い光を受けてきらめいている鈴掛の葉を見あげ、「五月だもの」と小さく声にした。

「お願いします。あと三十分待ってください」門馬は後宮の目をまっすぐに見ていった。
「それはいいのよ。でも三十分待ってこなかったら?それを心配してるの。矢嶋さん、外岡さんのこのあとのスケジュール聞いてる?」後宮は両腕を組んで門馬から目をそらさずにいった。
「五時にはあがりたいつていってました。撮影はないけど、編集者と写真集の構成をチェックする約束があるそうです」

矢嶋は後宮が怒っているときこそおだやかな口調になることを知っていた。四十二歳でクリエイティブディレクターの肩書を持つ後宮には宣伝部長でさえも逆らえないほどの力があり、社内のだれもが五年以内に取締役に昇進することを疑っていなかった。
クリスティーナのすべてのヒット商品の企画の立ちあげからかかわり、彼女抜きでは宣伝戦略を立てられないという状態なの だ。

「そう、じゃあ外岡スタジオね。いいわ門馬さん、三十分は待ちましょう。もしそれでも彼女がこなかったら、どうしたらいいかしらね」と後宮が皮肉な笑みで唇の端を吊りあげたとき、門馬のケイタイが鳴った。
「いない。どうしたらいいかって?そこにいろ。いるんだ。北原が帰ってくるまでだ。三日でも四日でもドアの前に立ってろ。そう、立って待つんだ」
門馬は後宮の視線を避けるために自分の背中を盾にしてプロダクジョンに電話をかけ、社長が不在だったので秘書に、緊急に相談しなければならない事態になるかもしれないので三十分後に社長のケイタイに連絡すると伝えてほしいといって切った。そして北原は現れないだろうという確信に近いものを抱いて後宮と向かいあった。

「もしこなければ、いかようにも責任をとらせていただきます。当然ですが、キャンセルすることによって生じる費用はすべてお支払いいたします」
「そんなことあたりまえでしょうが。でもそれだけで済みますか?門馬さん」広告代理店の吉田がはじめて口をひらいた。「金に換算できないものもあるんじゃないですかね」

「よしましよう。その話は三十分後。門馬さん、その様子じゃ北原佑とは連絡がとれてないのね」後宮はジルバーラメのマニキュアをつけた長い指にフロンティア・メンソールをはさんだ。
「むかえにいかせたんですが、留守でした」
「どうしちゃったの、彼女」後宮はフロンティア・メンソールに火をつけた。
「昨夜、わたしが自宅に送りとどけて、明日はガンバリマスと笑顔で別れたんですが……」
「そう、とにかく待ちましょう。吉田さん、外岡さんだけは怒らせないようにしてちょうだいね。

あたしはルイーズでコーヒー飲んでる。三十分後ね」
ヘァメイクの日比野は灰皿のなかでくすぶっている吸いがらにウーロン茶をかけて消したり、早くかたづけたいとでもいうように壁鏡の前にずらりと並べたメイク道具を手にとって減り具合をたしかめたりしていた。

「やっぱりさあ、葉月里緒菜といい宮沢りえといい、不倫はサイテーよね。末路はヘアヌードと拒食症しかないものね」と峰がくすくすと笑うと、日比野の目に冷たい色が浮かび、「葉月は十年後、二十年後に仕事をしているひとだ」と鏡越しに峰をにらみつけた。

「あっ、悪い、日比野さん、親しかったんだっけ?葉月、木村佳乃、米倉涼子と担当すれば全制覇じゃない。あっ、じゃあ、今週の『anan』の松たか子の表紙も日比野さんなんだ」
「ぼくはマガジンハウスの仕事はぜんぶことわってるんです」
「ギャラが安いからでしょ?」峰は日比野の目をのぞきこんだ。

「ギャラが安い、クレジットも出ないっていう悪条件の仕事も場合によっては受けるけど、あそ こはヘアメイクとスタイリストを大事にしないというか、一時間かけてメイクしても、三センチ
四方の顔写真だけだったりするでしょう。あれじゃあメイクしてもしなくても同じだから」
「池脇千鶴のメイクもやつでるんですよね」

「彼女は若いから、ぼくのやるべきことはほとんどない。あんまりっくりこむと若さを殺すから。
『anan』の表紙の写真は沢木さんだけど、ぼくはあんまりいいと思わない。作品だっていわれればそれまでだけど、沢木さんの個性を押しつけて、彼女の個性を殺してる」
「えっ、いいんですか。おたくの事務所の社長批判して」峰はこの話には価値があると判断して目を剥いた。あちこちに吹聴することができる。

「ぼくは、メイクの役割っていうのは、そのひとの個性をより際だたせるお手つだいだと思う」
峰は、日比野は近々沢木事務所をやめて独立するのだろうと直感し、沢木につくべきか、それとも日比野と親しくして仕事を組むべきかよく考えてみなければならないと自分にいいきかぜた。この世界もまた人間関係なのだ。

いまの勢いは日比野のほうにあるが、このひとはわたしを嫌っているかもしれない、そんな気がする。だったら沢木事務所とこれまで通りの関係をつづけるほうが得策だ、と思った途端にメイクルームが急に蒸しあつく感じられて、カーディガンを脱いで化粧台の上に置いた。峰は鏡に映っている顔のたるみから目をそらし、
「あたしがつけてる口紅のメーカ1わかります?」
「クラランス」

とそっけなくいいすてて、日比野は部屋から出ていった。
紋白蝶が気になって外に出た圭は、陽光をまともに浴びて立ちくらんだ。紋白蝶はいなかった。
通りに出ると、白い大きな蝶が陽炎にゆれながら飛んでくる幻覚を見た気がして目を細めたとき、白いカーディガンをはおった少女が、「アルカスタジオは?」と弾む声でたずねてきた。
「事務所ですか?」

「Cスタジオ」
圭は入口を指差してから歩きだし、
「だれに」
「わたしクリスティーナのものなんですけど、矢嶋さんにとどけものがあって」
「スタジオのなかかな?」

とても変わっている、と圭はこころのなかでつぶやいた。なにが変わっているという印象を与えるのだろう。美人でもなければ個性的な顔立ちでもない、だけどもしこの子と道ですれちがったら振りかえってしまうかもしれない、と圭は思った。
里彩がスタジオのドアを開けてなかに入ると、ロビーの椅子に座っていた日比野が声をかけてきた。

 

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