大ベストセラー 『命』 第二幕 渾身の育児 ・ 闘病 『私記』  
著者
柳 美里
出版社
小学館
定価
本体価格1238円+税
ISBN4−09−379205−4

 

 

わたしはなお待たなければならないのか。

そのためにどんな力があるというのか。

なお忍耐しなければならないのか。

そうすれば、とんな終りが待っているのか。

わたしに岩のような力があるというのか。

このからだが青銅のようだというのか。

いや、わたしにはもはや助けとなるものはない。

力も奪い去られてしまった。

『旧約聖書』「ヨブ記」

 

丈陽に授乳をするあいだ、わたしは音楽を流すことにしていた。左手で丈陽の頭を、右手で哺乳瓶を支えなければならないので、本や雑誌を読むことはできないし、丈陽の顔を見護ってやりたいのでテレビを観るわけにはいかない。授乳は日に七、八回、一回に要する時間は約二十分なので、三時間は音楽を聴いている計算になるが、家事、育児、東由多加の世話で産後のからだを振りまわしているせいで、乳首をくわえさせて五分も経たないうちに瞼がおりてしまう。真っ逆様に眠りに墜落しそうなわたしの意識を、敬虔なクリスチャンのぶ厚いてのひらのようなルイ・アームストロングの声がそっと受け止め揺さぶってくれた。

When you wish upon a star

makes no difference who you are

Anything your heart desires

will come to you

だれもがメロディーを知っている『星に願いを(When You Wish Upon a Star)』だが、英語音痴のわたしは歌詞を聴き取ることができない。しかしサッチモの声に籠っている意味がわたしのこころに響いてくる。丈陽は、拵えた百tの半分も飲まないうちに眠ってしまった。ゲップをさせるために横抱きから縦抱きに変えて、わたしは左手でそっと歌詞カードをめくった。

星に願いを託す時

君が誰であろうとかまわない

君が何を望もうとも

夢はきっと叶うだろう

この歌詞をくりかえし読んだ。わたしは東由多加が癌だということがわかってから、毎日欠かさずわたしの部屋にある神棚と仏壇に向かって祈っていた。目を醒ますとまず神棚の前に立ち、てのひらを打ち鳴らして祈り、それから仏壇の前で膝を折り、蝋燭と線香に火を点して祈った。祈るのをやめたのは、いや、祈れなくなったのは、出産して丈陽を連れ帰ってからだ。希みを賭けていた抗癌剤タキソールがまったく効かずに東の癌が増悪したことで、あきらめたわけではないのだが、祈りの言葉がこころに沈澱し、願いを叶えてくれない神仏に対する怨嵯に変色しかかっていた。

東も毎日飲んでいたプロポリス、AHCC、アガリクス、ビオチーム、朝鮮人参をやめてしまった。「強い抗癌剤を一か八で最大量投与する、それしかないんじゃないかな。医者は信じないと思うけど、奇跡を起こすとしたら、おれの免疫力だよ。だって、半年間5−FU、シスプラチン、タキソールとやってきて、堪えられないほどの副作用は出てないんだから。遺伝子治療は現時点では多臓器転移には効果がないとされているけれど、抗癌剤でなんとか二、三年延命できれば七き遺伝子治療はきっと劇的に進歩するよ。丈陽が二歳になるまではぜったいに死なない。

二年のあいだに、あなたは丈陽とふたりで生きていく人生を設計すればいいじゃない」東はわたしが暗い顔をするたびに同じ言葉をくりかえした。最初のうちは、「二年なんかじゃだめ。完治を目指そうよ」といっていたのだが、いまは、「ひとりじゃ育てられない」とつぶやくのがせいいっぱいだった。ふと気配を感じて目をあげると、東がリビングのドアのガラスに額をつけていた。わたしは小さな叫び声をあげた。

「末期癌患者がこんなことすると、怖いでしょ」と微笑みながら部屋に入ってきたが、東の顔は憔悴し切っていた。「やだ、びっくりした、やめてよ。それに末期癌じゃなくて進行癌でしょ」わたしたちのあいだでは〈末期〉という言葉は禁句だった。東はわたしの腕から丈陽を抱き取っていった。「音楽大き過ぎるよ」「そう?」「あなたにちようど良くても、丈陽には大き過ぎる。まだ鼓膜がしっかりしてないんだから、小さくしてやってよ」と丈陽の頭を左手から右手に持ち替えようとして眉と唇を歪めた。わたしはあわてて丈陽を受け取った。

「痛いッ。ロキソニンもアモバンもぜんぜん効かないんだよ」ロキソニンというのはニューヨークのメモリアル・スローン・ケタリング癌センターでもらった鎮痛剤で、アモバンは癌が発覚してから服用しつづけている睡眠薬である。昨夜は決められた量の倍飲んでも痛みはおさまらなかったし、うつらうつらすることもできなかった、と東は罠にかかってもがきつづけた果てに力を失った小動物のような眼差しをわたしに向けた。「どうしょう」わたしは丈陽をかかえたまま立ち尽くした。東は床にうずくまり、数分間日を閉じて右手で左肩を押さえていたが立ちあがり、「丈陽をみててあげるから、あなたお風呂に入りなさいよ」と両手を差し伸ばした。「でも、痛いんでしょ?」

「始終痛いわけじゃなくて、波があるから」東が手を引っ込めないので、わたしは丈陽を渡した。わたしの視線は、湯船のなかの自分のからだをかすめていった。張って突き出ている乳房、皮がたるんで皺が寄っている腹部、ひとまわり太くなってしまった二の腕、ふともも、ふくらはぎ、元に戻るのだろうかとぼんやり考えたが、元に戻そうという積極的な気持ちにもなれなかった。乳首をつまむと、湯のなかに黄色い乳汁が流れ出た。眠ってしまいそうなので、今日はからだを洗わずにあがろうと湯船をまたいだ瞬間、めまいがしてふたたび湯のなかにからだを沈めた。出血が止まらないのとろくなものを食べていないのと寝不足のせいだ。

出産前はわたしが昼育児をして夜眠り、東が昼眠って夜育児をすると計画を立てていたのだが、東の具合が急速に悪化したため、二十四時間わたしが面倒をみなければならなかった。風呂から出てざつにからだを拭きパジャマを着た。東の部屋の、ドアは開けっ放しで、いびきが廊下に響いていた。わたしはスイングベッドのなかで眠っている丈陽をそっと抱きあげ、電気を消して、ドアを閉めた。和室のベビーベッ、ドに寝かせ、枕もとに置いてあるコンパクトカメラで丈陽を写した。誕生した日から毎日撮っている。撮り溜めて、丈陽の父親である彼に送るつもりだった。彼はわたしを棄てた。過去形だ。いま、彼とわたしは無関係だ。だが彼と丈陽は父子であり、その関係はどちらかが死んでも断ち切ることはできない。関係は成立している。

だから彼は丈陽を棄てているのだ。決して過去形にはならない。丈陽の出生時の体重は三千六十グラム、退院時は体重三千百十八グラム。一日に平均三、四十グラム増え、身長は一ヵ月で四、五センチ伸びる。一生のうちでもっとも成長する時期で、毎日接しているわたしでも一日ごとに大きくなっていくのが目に見えるかたちでわかる。我が子の誕生と成長を喜ばない父親、彼は棄てた子として過去に追いやろうとしているのだろうが、丈陽は現在も棄てられつづけているのだ。わたしは彼によって〈見棄てる〉という言葉の意味を実感として思い知らされた。

丈陽を見ることを拒絶している彼は、毎日瞬きの回数だけ丈陽を見棄てているのだ。ほんとうは彼が一日に瞬きをする回数分シャッターを押して、ネガのまま送りたかった。しかし、と思う。写真を送って、わたしは彼の、どんな反応を期待しているというのか。父親としての愛情を掻きたてたいのか、変換不能な事実を突きつけたいのか、枠の外の見えない場所に目を凝らしてほしいのか、沈黙のなかの叫び声に耳を澄ましてほしいのか。ロラン・バルトは『明るい部屋』で、〈「写真」とは、「ほら」、「ね」、「これですよ」を交互に繰り返す、一種の歌にほかならない〉と書いているが、わたしは彼に向かって、「ほら、ね、これですよ」と同じフレーズを延々と歌いつづけようとしているのかもしれない、という結論にたどり着きかかったとき、わたしの頭のなかで、別れる直前にふたりで行った沖縄の砂浜のデッキチェアーに寝そべっている彼の姿が現像され、何枚も何枚も焼き増しされ、暑く湿った沖縄の大気までもが強烈な睡魔と光を伴って押し寄せてきた。

眩しい、目を開けていられない。わたしと彼は高架下の横断歩道の前に立っている。わたしの腹は臨月の大きさだ。わたしと彼は言葉を交わすことができない。車は一台も通らないのに、ふたりとも渡ろうせず信号が青に変わるのを待っている。長い時間が過ぎて、信号が青に変わる。彼は唐突に口をひらく。横断歩道を渡って、あの角を曲がったら別れよう。彼の横顔を見るが、光の反射で真っ白だ。わたしは彼の脚にしがみつく。いやだと叫ぼうとするが唇も舌も強張って動かない。いや!わたしは絶叫する。信号が赤に変わり、車がクラクションをいっせいに鳴らす。クラクションから赤ん坊の泣き声が枝分かれしたと思った瞬間、クラクションではなく丈陽の泣き声だということに気づいて、わたしは跳ね起きた。

「ごめん、ごめんね、夢みたの、夢だから、怖くない、怖くない、ごめん」と丈陽を抱きあげて揺すったが、丈陽は泣きやむ気配をみせないので、和室を出てリビングテーブルのまわりを歩いた。彼の脚にしがみつく夢をみた、ということにあらためて驚き、ショックをおぼえ、屈辱感でいっぱいになった。涙があふれ、涙は首を伝って乳房のあいだを濡らし、喉からうっうっと鳴咽がこみあげてきた。これはきっとマタニティーブルーだ、と自分をなだめようとしても、泣くのを止めることはできず、丈陽とふたりで泣きつづけた。彼との想い出はわたしにっきまとって離れないが、もしかしたらその逆でわたしが彼との想い出にしがみついているのかもしれない。でも、しがみつかなければならない理由があるのだ。

永遠に痛みが刻印されるような別れかたをするとわかっていたら、つきあわなかったのにと後悔することすらわたしには許されていない。丈陽の存在を後悔することに繋がるからだ。だから、決して後悔してはならない。そのためには、彼を好きだという気持ちだけは壊れないようにたいせつにしなければならないのだ。わたしは、「経験していないひとにこの苦しみがわかるはずがない」と自分の苦痛を拠り所にして他者を拒絶する人間が嫌いだったが、妊娠六ヵ月で男に棄てられ、共に苦難を乗り越えようと生活しはじめたもうひとりの男は癌に冒され、その男の病状が悪化したときに出産し、産後のからだで嬰児と重病人と原稿の締切りをかかえねばならない女の気持ちは想像力だけでは理解してもらえないのではないだろうか

。肉体と精神、そのどちらともが軋んで皹が入り、いまにも崩壊しそうだった。時計を見ると、三時だった。わたしが眠ったのはたったの一時間半だが、十一時に授乳したきりなのでそろそろミルクを飲ませなければならない。わたしは丈陽をスイングベッドに移して、台所で調乳をした。ミルクを与えて丈陽を寝かしつけ、哺乳瓶を洗って煮沸消毒し終えると四時だった。つぎの授乳は六時、二時間は眠れる、と目覚しを六時にセットしてわたしは眠った。目覚しを止めてしまったらしく、起きたのは六時四十分だった。のろのろと夜のあいだに溜まった産着やガーゼやバスタオルなどの汚れものをかかえて脱衣所に行き、洗濯機をまわし、丈陽のおむつを取り替えてからミルクの準備をした。ミルクを飲ませさえずれば眠ってくれる、もう一度眠らなければからだが持たない、と哺乳瓶の乳首を丈陽の口に入れたのだが、三十t飲んだだけで吐き戻し、泣き出した。

「なんで泣くわけ!」思わず声を荒らげてしまった。その声を聞きつけて、東が起き出してきた。「赤ちゃんに、なんで泣くわけって訊いてもしょうがないでしょう」「おむつ替えたし、ミルクやったし、泣く理由なんてないのに泣くんだもん」ミルクを吐いたということは黙っていた。「ちょっと、貸してごらん」と東はわたしの腕から丈陽を取りあげ、テーブルのまわりをゆっくりと一周した。「ほら、泣きやんだ。赤ん坊は泣くのが当たり前だなんていうのはインチキだからね。泣くのは不快だからだよ。泣いたら、なんで泣いてるんだろう、なにをしてほしいんだろうって、この子の身になって考えて、すぐ行動しなきやね。

丈陽くん、丈陽くんは探検したかったんだよね。お風呂には何時に入れるの?」「何時でもいいよ」わたしの声は自分でもうんざりするほど不機嫌だった。「毎日決まった時間に入れたほうがいいでしょう。この子はつい最近まであなたのおなかのなかで快適に暮らしてたんだよ。不快な環境に生み落とされて、それでも全力で順応しようとしているんだから、生活のリズムをつくってあげないとかわいそうだよ」「そうだね」眠くて声を出すことさえ大儀だった。「あなた、ひどい顔色だよ。丈陽みててあげるから、眠りなさいよ」そういう東の顔色もひどかったが、わたしは黙って和室に行き、布団にくるまった。「丈陽のお風呂の時間になったら起こすからね。十時だよ」東の声は辛うじて鼓膜に届いたが、わたしはもう眠っていた。今度こそどんな夢も入り込む余地がないほど疲れ果てていた。

ドアが開いた。目を開けると、東が丈陽を抱いて立っていた。「起きるよ」妊娠中のときの癖で四つん這いになってから壁に手をついて起きあがった。「でも、左腕痛いんでしょ」「痛いね」「どうしょうか」「交代しよう。おれが洗う係で、あなたが丈陽のからだを支える係。右手で洗えば問題ないよ」いつもの手順で、わたしはベビーベッドの上にバスタオルをひろげて産着と紙おむつを重ね、綿棒とガーゼと膀の緒の消毒液を用意した。東は浴室でベビーバスに湯を張っている。和室と浴室はとなり合っているので、大声を出せば聞こえる。「連れてきて!」東の声を合図に、わたしは、パジャマの袖をまくりあげ、丈陽の服を脱がせて抱きあげた。

わたしが丈陽の頭を支えると、東は丈陽の両手にガーゼの端を握らせてからだをガーゼで覆ってから、丁寧に手早く洗っていった。髪にせっけんをつけているときに丈陽はガーゼを離してしまい、右手を前に突っ張らせて唇をへの字に曲げた。「ほらお手々つないだ、もう怖くないでしょ」東は痛みがある左の手で丈陽の手を握った。「丈陽くん、あんた得したね、どんどんハンサムになっていくね」「ハンサムって得なのかね?女難に遭うと損するでしょ」と口をはさんだわたしを無視したので、東も余裕があるわけではなく丈陽が泣き出さないよう必死であやしているのだということに気づいたが、頭を支えている右手が痩れてきた。「手が痛い」「もうすこしだから、がまんしなさいよ」わたしは右手のひじを左手でつかんで固定した。

「大きくなあれ。大きくなあれ」と東は丈陽の性器にせっけんをつけて洗いはじめた。洗い足りないような気がしたので、わたしは左手を伸ばし、性器と肛門を洗った。「やだね、あんたのお母さんは。あんまり洗うと、おかまになつちゃうよっていってやりな」「だって、助産婦がおちんちんの裏ときんたまの裏と肛門をよく洗えっていったんだもん」「丈陽くん、訊いた?きんたまの裏だってさ」わたしと東は丈陽を安、心させるために冗談をいい合っていたが、わたしは痴れた右手を強張らせながら丈陽のからだの隅々を目で点検し、東は痛いほうの手で丈陽と手を繋ぎ、もう一方の手で丈陽のからだを洗っていた。そして丈陽は不安げにわたしと東を交互に見あげていた。わたしと東と丈陽の手は、ほかのふたりにすがるために、そしてほかのふたりを支えるためだけに存在しているようだった。

三人のうちひとりが欠けたら、残されたふたりは倒れてしまうと確信するほど、互いが互いにとって必要だった。

Like a bolt out of the blue

Fate steps in and sees you through

When you wish upon a star

your dream comes true

 

青天の露盤のごとく突然に

運命は君のもとにやってくる

星に願いを託す時

夢はきっと叶うだろう

わたしは願いを握りしめ過ぎているのだろうか。てのひらをひろげ願いを解き放たなければ、天には届かないのかもしれない。わたしはてのひらに願いを閉じ込めている。けれどわたしにはてのひらをひらくことなどできそうにない。わたしは願いを手放すことのできない自分ごと神に託して祈った。わたしはあと二年で死んでもいいですから、東由多加をあと二年生かしてください。なんとか丈陽と東由多加と三人で二年間生きたいです。神さま、どうかわたしの祈りを叶えてください。ドアの下の隙間から光が洩れていた。

光のなかで煙が泳いでいる。また、煙草を吸っているのだ。東はわたしがどんなに頼んでも煙草をやめてくれなかった。タキソールが効かずに肺の癌が増悪したということがわかった数日前からは、「食道の癌がのどに転移したら声帯がやられて声が出なくなるんだからね。延命の可能性があるなら、どんな強い抗癌剤でも投与したいってひとが、煙草吸ってるなんて矛盾するよ」といって、パイライトの箱を見つけたら即座に水に浸し て棄てていたのだが、わたしが眠っている隙に外に出て、近くの自動販売機で買ってきてしまうのだった。煙草の害もさることながら、東は睡眠薬を常飲しているので、もしも火を消し忘れて灰皿が割れ、机に燃え移っても気づかないに違いない。

互いの部屋を開けるときはノックをしてからというのが暗黙のルールになっていたのだが、眠っていたらノックで起こしてしまう。わたしは音をたてないようにドアを押した。東は起きていた。椅子に座って鏡を覗き込んでいる。風呂に入るとき以外はベッドの上でも毛糸の帽子をかぶっていたので、毛髪がこんなにすくなくなっているとは思わなかった。うなじと額の生え際にわずかに残っているだけだ。しかもなぜか抜けたのは黒い毛で、残っているのは白髪なので、十歳は老けて見える。わたしは灰皿のなかの煙草を揉み消していった。「癌で煙草を吸うのはさ、もうあきらめたひとだけだよね」以前だったら、「ふかしてるだけだよ。肺にものどにも入れていないし、ふた口吸ったら消してる」といいわけしていたのだが、東は黙って髪を引き抜いている。

「丈陽は?」声が低く掠れている。煙草のせいだろうか−。「眠ってる」わたしはガムテープを輪にして枕とシーツにへばりついた髪の毛を取り、東のカーディガンと帽子についた毛を取りながら話した。「剃ったら?」「剃ってどうするの?」「ユル・ブリソナーとかテリー・サバラスとか、スキンヘッドにすれば、それはそれでかっこいいよ」「おれは頭でかいから似合わない」「似合うよ」「どこで剃るの」「ニューヨーク行く前にやってもらった美容院」わたしは、ニューヨークに行く前日に東を美容院に連れて行った。鏡の前に座らされて、しゃべりかけられるのがいやだというので、わたしがうしろの椅子に座って美容師と応対した。「もみあげはどうします?」と美容師が訊ねると、「もみあげどうする?」東が鏡越しにわたしに訊ね、「耳の上でそろえてください」とわたしが鏡越しに美容師に答えるという按配で、傍から見たらかなり奇妙な光景だったと思う。

「がんセンターのなかの美容院だったら、慣れてるんじゃない?」「あなた、冴えてるね。でも、なんか、変な吹き出物があるし、汚いんだよ」「なに、それ」わたしはコルクのように乾いている唇をぎゅっと閉じ、東の頭に顔を近づけた。膿をもった吹き出物が禿げあがった頭皮に点在している。耳の裏や首のうしろにもある。「軟膏もらって塗ってるんだけどね。タキソールの副作用で免疫力が落ちてるみたいだよ。貧血だっていわれた」「レバーとか食べないと」「そうじやなくて、根本的な貧血みたい」「輸血は?」

「もうすこし進んだら輸血しなくちゃだめみたいなんだけど、輸血にもメリットとデメリットがあるそうだよ」一月に臨月に入ってからは、病院への付き添いは東京キッドブラザースの制作兼女優の北村易子さんと、やはりキッドの元女優で現在はスチュワーデスをしている大塚晶子さんに任せていたので、東の主治医の室圭先生とは二ヵ月近く話をしていなかった。「眠る努力をしてみょうかな」東はベッドに横になり、わたしは布団を引きあげた。二ヵ月前に京都の俵屋に注文して拵えてもらい、昨日届いたばかりの羽毛布団と毛布だった。「どう、寝心地は?」「いくらしたの?」わたしは唇に力を入れて笑いを堪えた。「あなたがそういう笑いかたをするときは危険なんだよ。いくら」「布団が八万で、毛布が五万」「また馬鹿な買い物をして」,「でも、俵屋のは羽毛が違うんだよ。毛布はカシミア八十。パーセント、シルクニ十パーセントだし」「あなたはいい寝具におれを寝せれば痛みが緩和されて、熟睡できると思っているんだろうけ、ど、そんなことないんだよ」「でも一生ものだから」「一生もの、ね」そのいいかたには、おれがいつまで生きると思ってるの?というニュアンスが含まれていたが、わたしはたじろがずにいい返した。「長く使うから、いいもののほうがいいよ」本文P.2〜23より

・・・・続きは書店で・・・・

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ISBN4−04−873169−6
ISBN4−09−379205−4
ISBN4−09−379204−6
ISBN4−8401−0027−6
ISBN4−10−401704−3

 

 

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