太宰治(1909-1948)はその生涯に何度も自殺を試み、39の時に成功した。
21の時に女と鎌倉で死のうとした時は、一緒に死のうとした女だけ死んで、自分は生き残った。
それも本当は死ぬつもりだったと僕は思う。
そんなふうに、彼は「行き詰まったら死ねばいい」的な弱い(強いという人もいるが)心の持ち主だったと思う。
太宰は昔の人のように思われるが、もし長生きだったらまだ93才でワールドカップで、ゴンの復活を喜んでいたかも知れない。
僕は太宰と話したことのある人の話を聞いたことはある。
それほど今の人なのだ。
ちなみに三島由紀夫もまだ77才。
さて、そんな感じで彼は39の時に僕の家の近所で死んでしまうのだが、彼が一緒に死んだ山崎富栄という女が、まるで太宰を殺したかのような評判でとりあえず世の中的には定着している。
もちろん山崎は太宰に心酔しきっており、太宰教の信者のようなものだ。
しかし、恋には少なからずそんなところがあって「好きな人教」の信者になるのだ。
太宰はけっこうもてたので(といっても絶対に現代のほうが広い意味に於いての恋愛の関係は希薄だ)最後もけっこう真剣に何人かの女に思われ、かつ迫られていた。
太宰が売れっ子になったのは「斜陽」の後で、それまではまあマニアックとはいわないまでもそこそこの作家という感じだった。
太宰は富栄が当時では一番好きだったのだと思う。
富栄は最後の太宰の母、秘書、看護婦、愛人の4役をしていた。
それで彼が死んだ理由だが、まずもう肺病が進んでいて、身体が弱って「もうだめだ」と思っていたこと。
当時の文壇の大家である志賀直哉のことをボロクソに名指し
で書いた文章があるんだけど、それも本気で志賀にムカついていて、どうせ死ぬんだからもういいや、と思ったのだと思う。
長男もダウン症で悩みの種だったらしいが、身体がもうどうにもならなかったというのが一番の理由で、富栄は喜んで一緒に着いていったとは思うが、富栄が殺したわけではない。
自棄(やけ)だったんだ。
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