ぶらぶら歩いて気がつくと




僕は今日まで楽な方ばかり選んで生きてきました。

高校を卒業し、先の道を選ばなければ行けない時もそうでした。

高校までもただ義務教育の流れできたわけですが、そこから先は何をやるかによって人生がだいぶ変わってきます。

僕は何がやり たいとは決まっていなかったし、もうちょっと時間が欲しいと思って大学にいくこと にしたのです。

そんな浅い理由なので、大学はどこでもよく、大学に入るための勉強 をする気にはなれませんでした。

大学で何を勉強したいわけでもなく、ただ人生を決 めるまでの猶予が欲しかったわけです。

なので大学は受験科目だけで選び(英語が得 意だったもんですから)入れそうなところだけを受けてそこに受かりました。

 大学生活は大概ぶらぶらしていました。

学校周辺の川越の街や、家の近くの吉祥寺 をぶらぶらして適当なところでコーヒーを飲む。

それでまとまった休みになると日本 各地へ旅をしました。

夏は北海道、冬は九州、各駅停車やヒッチハイクであてもなく ぶらぶら行き、やがて帰りました。

お金を使わない旅で、野宿や旅先で知り合った人 に泊めてもらったりしました。

どんぐりを拾って食べたこともあります。

 大学の3年になるとまわりの人が就職活動で慌ただしくなり、みんなが「今日はどこどこで会社訪問だ」とか、「どこどこで面接だ」とか言ったりして、何も知らない 僕には、みんなどこでそんな情報仕入れてくるのか不思議でたまりませんでした。

もちろん受験科目で選んだ大学で、有名大学でもなく、学歴社会には向いていないこと は知っていたし、こっちだって就職する気はさらさらなかったけれど、とにかくそん な就職情報が僕のところにもきてくれてもいいとは思っていたのです。

しかし大学の 就職活動は自分が動かなければ何もないまま終わるんだなと思いました。

まあ、それ は不思議だっただけで、どうでもいいことなのですが、僕は、今から振り返るとあの 時が一番ひねくれ者の嫌なやつでした。

口げんかでも負ける気がしませんでしたし、 こっちが悪くても正しいようにもっていける自信もありました。

4年になってみんな の就職が決まりだしても、僕はその人たちを見下したように、「一生やりたいことを やる。

やりたいことやって食えなかったら、食わない。

餓死する!」と言ったりしも しました。

 大学が終わり、僕はプ−になりました。

高校を出て、人生を決めるために与えられた 四年間も、結局あっという間に過ぎ、何がやりたいのか分からないまま、大学から社 会に放り出されたわけです。

そうなるのが分かっていたから、大学の間にちびちびお 金をためていました。

そしてそこからはそれをゆっくりと食いつぶすサバイバルゲー ムの日々が始まりました。

僕は姉と二人で東久留米の公団住宅に住んでいて、そこの 家賃がたしか4万しないくらいで、それと光熱費を二人で割り、3万あれば最低生きて いくことが出来ました。

そんなペースで行けば、一年以上は生きていけるくらいの貯 金はありました。

しかし、使えるお金がないのであまり人と遊ぶことはできず、一人 でただぶらぶらしていました。

僕の事情を知っている友達は良くおごってくれたりも しましたが、「おまえと遊ぶと金がかかる、何で男におごらなきゃいけねえんだよ」 とか言われたりもしました。

僕にあるのは暇だけだったんです。

まあそうしてゆっくりぶらぶら生きてきました。

自転車でぶらぶらしたり、ヒッチ ハイクで遠くまで行ったりしました。

あてのない、だらけた毎日でした。

お金がだん だん減っていくことが不安でした。

だらけていると、勝手に罪悪感を感じたりもしま した。

このままではいけない、何とかしなければ、とは思うのですが、結局何もする 気になれず、雨の日に家にいたりすると、「ざまあみろ、お前ら雨でも働いてろ」と 心の中で笑っていました。

(続きは本「無気力爆発」でね)

 

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