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二〇〇七年晩夏　マカオ

欲望という名のカオスが人の精気を吸い取り、街を極彩色の狂気に染めていた。一撲千金を夢
見る者から理性を根こそぎ奪い取ろうとする街は、すべてが黄金色に塗り潰されている。
中国を知りたければマカオに行けー。
チップを弄びながらテーブルを見つめる鷲津政彦は、何人もの”中国通”が異口同音に勧め
た意味を実感していた。この街こそは膨張中国そのものであり、欲望という”魔物”の巣窟だっ
た。
「大将、次も絶対“プレイヤー”だ」
「おい、黙ってろ、大将の運気が逃げるだろ」
頭上を野次馬たちの声が飛び交う。いや、連中はただの野次馬ではない。ミニマムベット（最
低掛け金）一○○○香港ドル（約一万五〇〇〇円）のバカラで勝ち続ける”大将”の運気に、便
乗しようと持ち金を張る、れっきとしたギャンブラーだった。
こいつらこそ、ハゲタカだな……。
鷲津は口元を歪めながら取巻きに一瞥をくれると、バンカーサイドにチップを一〇枚積み上げ
た。現金なら怯んだかもしれない。だが五〇〇ドルがプラスチックのチップ一枚に化けた瞬間、
金の重みを忘れてしまう。
便乗者たちが張る色とりどりのチップが、バンカーサイドにたちまち山と積まれた。ディーラ
ーの掌が表に返されベットの終了を告げようとした瞬間、鷲津と同額のチップが、プレイヤーサ
イドに張られた。
さっきまで空席だった場所に、場違いなダークグレーの背広姿の男が座り、鷲津に向かって微
笑んでいた。
バカラは、ディーラーから配られるカードの一の位が、合算で九に近い方が勝つ。カードはプ
レイヤーとバンカーの各サイドに最高ベットを張った者だけに配られ、”運試し”の代表となる
権利が与えられる。
最初に配られるカードは二枚。どちらかのプレイヤーのカード合計が八か九であれば、そこで
ゲームは終了する。あるいは双方が六か七でも同様だ。それ以下の合計数の場合、三枚目のカー
ドが配られることになるのだが、そこにも細かいルールが定められている。
そもそもトランプゲームの多くは、運試し的な要素が強い。とは言うものの、カードをもう一
枚引くかどうかの選択権は、プレイヤーにある。しかしバカラには、その選択権がまったくない
のだ。結局は、どちらが勝つかを予想するだけのゲームであり、プレイする醍醐味に欠けてい
た。
性に合わないゲームだった。だが、マカオのカジノ王が経営するリスボアの熱気に当てられた
鷲津は、吸い寄せられるようにテーブルに着いたのだった。最初の数回こそ負けたものの、それ
以降は勝ち続けた。そして周囲に”大将”と煽られるうちに、ゲームにのめり込んでいった。
手元にカードが二枚配られた。既に対戦相手は卑屈なほど背中を丸めた“しぼり”と呼ばれる
ポーズで、カードの角を折り曲げ、数字を見ていた。
そんな風に見たからといってカードに奇跡は起きない。だが、マカオのギャンブラーは、自ら
の未来を占うほどの真剣さでカードに念を込め、いじましいほど小さくめくりながらカードが示
す命運を覗き込む。
固唾を呑んでプレイヤーを見る取巻きから、掛け声とも野次とも言えぬ声が上がった。彼らも
カードに念を飛ばしているのだ。
冷ややかな視線を鷲津に投げかけながらプレイヤーは、カードを静かに開いた。
ハートの３とスペードのクイーン。絵札は全てゼロに換算されるため、合計は三だった。鷲津
に張る連中が「よし！」と叫んだ。
カードを手元に引き寄せた鷲津が、何の躊躇もなく開こうとした瞬間、先ほどより数倍大きい
捻り声が上がる。