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 完全恋愛
 
牧薩次/著 出版社:マガジンハウス 定価(税込):1,890円  
第一刷発行:2008年1月 ISBN:978-4-8387-1767-5  
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推理作家協会賞受賞の「トリックの名手」T・Mがあえて別名義で書き下ろした究極の恋愛小説+本格ミステリ1000枚。
 

本の要約

昭和20年…アメリカ兵を刺し殺した凶器は忽然と消失した。昭和43年…ナイフは2300キロの時空を飛んで少女の胸を貫く。昭和62年…「彼」は同時に二ヶ所に出現した。平成19年…そして、最後に名探偵が登場する。推理作家協会賞受賞の「トリックの名手」T・Mがあえて別名義で書き下ろした究極の恋愛小説+本格ミステリ1000枚。

牧 薩次 (マキ サツジ)       
辻真先の別名義。名古屋生まれ。名古屋大学文学部を卒業して、NHKテレビで制作演出を担当。その後アニメ脚本や推理小説を書き、1982年、『アリスの国の殺人』で第35回推理作家協会賞を受賞。その後、第11回文化庁メディア芸術祭功労賞、第39回長谷川伸賞などを受賞する(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)


オススメな本 内容抜粋

蛙たちが鳴きわめいていた。
「うるさいなあ」
究はぼやいたが、同調する者はない。少年はひとりで長い夜道を歩いていた。
彼が暮らしていた東京の下町でも、初夏の川岸を歩くと遠慮がちに蛙の鳴く声が聞こえた。
あのささやかな唄に比べて、会津の山奥の蛙の合唱ときたら狂騒的だ。喜多方盆地の北の外れで、
福島県といってももう山形との県境に近い誉村の一角だ。
それまで東京を離れたことのなかった本庄究にはおいそれと馴染めない土地柄であった。国民学校
では疎開児童と地元の子供の間で、かなり深刻な対立を生じているらしいが、究はもう中学二年にな
っていたし、彼を預かる父方の伯父坂上隼夫が名家のせいもあって、いじめられることはなかった。
ただ完壁に無視されつづけただけだ。
刀掛という名の集落には、温泉が湧いているおかげで旅館もなん軒かあり、多少の人口集積は見
られたけれど、それでも中学に進学する子供はひとりもなかった。学校にいる問も孤独な究だが、往
復の通学路にいたっては完全にひとりきりだ。
山の端に日が落ちる夕暮れどき、黒い巨人が肩を並べるようなスギの林を抜けたあとは、田んぼに
映る星明かりと、その向こうに瞬く家々の灯が、わずかに少年の心を暖めてくれた。同時に彼を出迎
えるのが、蛙どもの脅迫的な大合唱であった。
こいつらは元気だなあ……。
慢性的な空腹を抱えながら、唄声に誘われて究は思い出した。
東京のあのつつましかった蛙はどうしただろう。もちろん三月十日の大空襲で、一匹のこらず焼け
死んだに違いない。そう、究の両親や妹とおなじく炭になって。
いつか少年は足を止めていた。
暗い空に無数の火の粉が舞い上がっている。
あの夜の炎を、究はまざまざと幻視した。
人体が生焼けになる異臭が鼻を衝く。・
熱気が顔を、手を、背を灸る。
家の窓から飛び下りるとき右足首を捻挫したのに、少年は痛みを覚えていなかった。
こおごおと、風の音、炎が舞う音、家々の焼け落ちる音。
空を仰げぽ業火の彼方に浮かぶ巨影は、アメリヵ空軍の怪鳥B29であった。対空砲火の一切を黙過
して、悠然と夜の頂上を滑走してゆく。
あんなにゆっくり飛んでいる敵を、なぜ落とせないんだり・
逃げるのをやめた少年は、拳を握って地団駄踏んだ。
その一瞬の遅滞が、彼と彼の先を走っていた家族との運命を分けたのだった。
父母と妹の頭上に、エレクトロ焼夷弾の嵐が見舞った。本来なら焼夷弾は、高空で束を解かれて広
い範囲に散布される仕組みだが、このときに限って仕掛けがうまく働かなかったようだ。
密集した焼夷弾の落下は、光の駿雨となった。またたく間に親子は、人の形の松明と化した。生理
的な時間にすれぽ一秒のなん分の一でしかないのに、家族の死の塑像三体を、今もありありと網膜に
蘇らせることができた。
病身の妻の手をとっていた父本庄淳は、右肩と左足にべつべつの焼夷弾を受け止めた。天を仰いで
苦鳴する声は、ふしぎと少年の耳に届いていない。同時に母琴子の髪が燃え上がっていた。炎を背に
シルエットと化した彼女は最後の力で全身をくねらせ、凄絶な美しさを究の心に刻んだ。妹の麗はす
でに小さな火炎の立像であった。ああ、妹が大切にしていたセルロイドのキューピーが溶けてゆく。
そんなことは覚えているのに、究は自分がなんと叫んだのか、まるで記憶していなかった。たぶん少
年には、声ひとつあげる余裕もなかったのだろう。
その日その時その場所で、本庄一家に焼夷弾の嵐が見舞う運命を、いったい誰が決めたのか。そし
て究だけが生き残るという運命も。
それが神や仏の御心というのなら、そんな神や仏は俺が殺してやる。
本庄究の全身を、怒りの炎が吹き抜けた。
・・・・・・。
一瞬の焦熱地獄から少年を呼び返したのは、蛙たちの合唱だ。
「むーたん」
水のように静かな声が、唄声を縫って聞こえてきた。
「なに、みイちゃん」
究は思わず声に出し、その声に驚いて滞ったコーラスは、しかしすぐに勢いを取り戻した。
「蛙って好き」
みイちゃんに聞かれて、幼い日の究はひどく戸惑ったものだ。
「俺、嫌い。ぷよぷよしてて、なに考えてるかわからないや」
「ふうん」甘えたように鼻を鳴らすのが、みイちゃんの癖だった。
「おたしは好きだよ。なに考えてるかわからないところが」
ニコリとすると赤い唇に白い歯がよく映えた。俺ももう少し歯磨きに精を出さなきゃ、なんて究は
思った。
みイちゃんの本名は知らない。おない年だったような気もするが、すべては夢よりも曖昧だ。それ
でいてふしぎなほど印象は鮮烈であった。風邪でも引いていたのか、記憶の中のみイちゃんは、布団
にちんまりとくるまっていた。
そこが母方の叔母の家であることは確かなのだが、さてそれがどのへんにあったかとなると、さっ
ぱり見当がつかなかった。母に連れられて市内電車に乗り、隅田川にかかる長い橋を渡って一度乗り
換えたはずだ。母の琴子も叔母の笙子も市電といっていたから、東京都がまだ東京市だったころであ
り、究が生まれ育った浜町の東にあたる、深川区の一角に違いない。池に住みついた蛙の唄を聞きな
がらの会話であってみれば、狭いながらも庭があり、奥深い間取りであったようだ。
なにもかもがぼんやりと、薄明かりに漂う思い出の中で、みイちゃんとのやりとりは、そこだけ額
縁に牧められたようにくっきりした輪郭を保っていた。
といっても思い出はごく断片的であった。蛙の話の後で究とみイちゃんは、仲良く眠ってしまった
らしい。日暮れには帰宅するはずであったのに、母と叔母は話に夢中でふたりの子供は放っておかれ
たのだ。
「この子ったら!」
だしぬけにグイと手首を掴まれて、目を覚ました究は、自分がみイちゃんの布団にはいって、それ
も抱き合って眠っていたことに気づいて、びっくりした。


(本文P. 14〜17より引用)


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