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ピンクの桃が、夜の路上に浮かんでいた。
六本木の裏通りである。ネオンを仕こんだ看板がアスファルトをぼんやり照らしていた。淡い
桃色のシルエットには、白抜きの英文でEAT A PEACHと抜かれていた。
(「桃をくえ」なんて、ふざけた名前だ)
奥山雅人は自分が名をつけた店の看板を眺め、ひとりでにやりとした。懐かしのサザンロック。
オールマンブラザーズバンドの傑作アルバムから拝借したものだ。
サクラの散る季節の夜風は、思いのほか冷たかった。女の指先が頬をなでていくようだ。なぜ
いつも女たちの指は冷たいのだろう。女という言葉で、藤森麻衣佳を考えた。豊かな乳房と雄大
な尻。あと二時間もすれば、あの身体を抱いているだろう。腰の奥でぞくりと動くものがあった。
妻以外の女と会う春の夜は、実に素晴らしかった。こんなことでもなければ、毎日のいまいまし
い仕事などやっていられない。
桃のバーは通りに面していた。スコットランドの古城から取り寄せたという木製の扉を体重を
かけて押し開く。
「こんばんは、雅人さん」
男だか女だか、わからない声がかかった。バーテンダーの長嶺紘輝である。紘輝の本名は紘子
という。この店を開く二年まえまでは女性だった。性同一性障害というらしいが、雅人は気にし
ていなかった。酒と客をあつかう技術があるなら、店をまかせるのはシロクマでもいい。紘輝は
今では性別適合手術をすませ、男性になっている。女性客にはもてるらしい。
「みなさん、先にお待ちです。いつものでいいですね」
片手をあげて、返事の代わりにした。クルミ材のバーカウンターが右手に一本。あとはソファ
席がふたつあるだけの店だった。客は誰もいない。奥の壁にはドアがひとつついていた。そこは
ファウンダー専用のVIPルームだ。
このバーは雅人と友人三人が金をだしあって開いた店である。ひとりあたりの出資はほぼ中型
ベンツ一台分だった。二年まえは賃料も改装費も今よりはずっと安かった。都心ではこの一年で
すでにバブルが燃え盛っている。
ドアを開くと正方形の部屋だった。天井も壁も床も黒である。そこにL字型に黒革のソファが
おいてあった。雅人の悪友三人が顔をあげた。
「よう、雅人、今日は麻衣佳ちゃん、あとでくるのか。おれ、彼女に合コンのセッティング頼ん
でるんだよな」
女好きの歯医者、脇田淳だった。なぜこの男は、小太りなのにピンクのコットンニットなど着
ているのだろうか。たるんだ腹がやけに目立つ。
「ああ、くるよ。そうしたら、みんなとはさよならだ」
「うらやましいね、社長さんは」
坂康之は代々銀座中央通りで文具店を経営する坂一族の四代目だ。座っていても、身体のおお
きさがわかった。身長は百八十六センチある。雅人は指定席の右隅に腰をおろした。
「おまえだって、康芯館の専務だろう」
「専務と社長は違うんだよ。おれなんて、ぜんぜん金は自由につかえないんだから」
文句をいう割にはいつもにこにこと人あたりのいい男だった。育ちのよさと性格は無関係であ
る。雅人は四十五年の人生でそれを見てきたが、坂のような男を見ると育ちがいいに越したこと
はなかった。
「おまえたちはいいよな。おれは昨日一億三千万損した」
銀縁メガネのしたで、眉のあいだに深いしわができていた。川北英次は頭なら四人のなかでも
つとも優秀だろう。大蔵省を蹴って、外資系証券会社に入社している。東大出のディーリング部
長は、ラフロイグの三十年で胃薬をのんだ。
「ああ、嫌になる。数字に追われるばかりの生活だ。アングロ・サクソンのやつらは、見境もな
く自信過剰で、欲が深い。あいつらの真似をしてたら、日本はダメになる」
ドアがノックされて、ボウタイをした紘輝が雅人のグラスを運んできた。メイカーズマークの
ソーダ割である。ファウンダーは自分の好きな酒を、店におかせることができた。三人はスコッ
チウイスキーを選んだが、雅人はひとりバーボンにした。 |