1
電話が鳴ったとたん、部屋の中の空気が変わった。
それはただの電話ではなかった。警視庁本庁舎六階、刑事部捜査第一課の大部屋に隣接する部屋。
そこが、特殊犯捜査係専用の執務室だ。
特殊犯捜査係、通称「SIT」には誘拐事件専用電話がある。それが鳴っているのだ。
第一係の若手、上野数馬巡査長が電話を取った。もう三十二歳だが、ベテランとエキスパートが顔
をそろえる特殊犯捜査係では充分に若手なのだ。
「はい。特殊班」
右手にはすでにボールペンを握り、メモ帳をたぐり寄せている。係員たちが注目しているのを意識
した。
「こちら、丸の内署の飯田だがね、係長いる?」
相手ののんびりした口調に、違和感を覚える。この電話は常に緊急の用件を伝えるために使われる
のだ。
「何がありましたか?」
「企業誘拐らしい」
「企業誘拐……。被害にあった会社は?」
「ひので銀行。そこに退官後就職していた警視庁OBから連絡があったんだが……」、
警察OBが、総会屋対策などの目的で銀行に再就職するのはよくある話だ。電話の内容が今ひとつ
はっきりとしない。
おい、これは誘拐専用の電話だぞ。
上野は心の中で舌打ちしていた。
「ひので銀行の行員が誘拐されたということですね?」
「その警視庁OBによると、銀行ではなるべく騒ぎを大きくしたくないので、気心の知れた捜査員に
連絡を取りたいということなんだが……」
上野は、相手が言うとおりに係長に電話を代わることにした。電話のマイクをてのひらで押さえて、
高部一徳第一係長に告げた。
「丸の内署の飯田さんて、ご存じですか?」
高部係長は、かすかにうなずき受話器を受け取った。
「代わりました。高部です。ご無沙汰してます」
係長はメモも取らずに相手の話を聞いている。相手の言葉に相づちを打つだけだ。
「了解です」
やがて高部係長は言った。「係員を現場に向かわせます。詳しい話はそちらで……」
受話器を置いた。
「銀行で誘拐事件ですか?」
ベテラン捜査員の東海林孝巡査部長が係長に尋ねた。東海林は今年五十歳になる。髪にはかなり
白いものが交じっている。
「行員を誘拐したという電話が、銀行宛にあったらしい。もと第四方面隊管理官だったOBが対処し
た。だが、銀行では本当に誘拐なのかどうか、判断に苦しんでいるということだ。銀行というところ
は、脅迫めいた電話は日常茶飯事らしいからな……」
「……で、どうします?」
「東海林チョウ、何人か連れて話を聞いてきてくれ。俺は管理官に報告する。数馬、トカゲだ。立川
に行っている連中を呼び戻す。涼子を合流させるから、先行しろ」
冷静沈着で決断力のある高部係長の指示には、一瞬の躊躇もない。
上野は即座に立ち上がった。
「了解です」
捜査員たちは、固まって部屋を出ることはしない。さりげなく、少人数に分かれて出て行く。記者
の眼があるからだ。
記者は、特殊犯係の部屋には入れないことになっている。だが、大部屋で出入り口の様子に眼を光
らせているのは明らかだ。
上野は、一人で部屋を出た。エレベーターホールではあくびをするふりをした。特殊犯係の捜査員
は常に演技力を要求される。
エレベーターに乗り込むと、地下三階に向かった。捜査車両の駐車場だ。まず、特殊犯係が「A
1」と呼ぶ大型トラックの荷台で、背広からライダースーッに着替え、無線機を装着する。
「A1」の荷台は、武器と各種機材や資材の保管庫になっている。出動服や防弾チョッキ、拳銃Nス
タングレネード、無線機、ドアを破るための工具など、特殊犯係の活動に必要なありとあらゆるもの
が積まれている。
それから、駐車場にずらりと並ぶバイクの列に歩み寄る。上野の愛車は、スズキのGSX400イ
ンパルスだ。目立たないブラックボディーだ。
|