プロローグ
すでに炎は、塔の最上層までを包み込んでいた。
建立百六十年の五重の塔は、熱に身悶えするかのように身を縮めている。
火勢はいよいよ強いものになってきていた。放水がはじまったとき、一瞬だけ衰えたと見えた
のは錯視だった。火事は、放水さえ猛り狂う根拠とするかのように、いっそう激しく燃えさかっ
たのだ。夜空に、火の粉が飛んでゆく。火の粉の中に、塔の相輪が赤く浮かび上がっていた。
木材が熱にはじけ、崩れる音がする。
安城民雄は、いま一度周囲を見渡した。すでにこの場には四台の消防車が駆けつけ、放水中だ
った。未明だというのに、野次馬も数百人は集まってきている。写真を撮っている者もいた。
谷中警察署の外勤巡査たちが、怒鳴るようにして野次馬たちの整理を始めている。
塔に隣接する天王寺駐在所の前では、母親と弟がすでにリュックサックを背負っていた。延焼
を心配し、とりあえず身の回りの品だけを持ち出したのだろう。母親と弟は、阻止線の外に出て、
おびえた目でこの火事を見守っている。火勢がこのまま衰えなければ、たぶん消防署員たちは駐
在所の建物の破壊にかかることだろう。
安城民雄は、大声で名前を呼ぼれた。首をめぐらすと、父の上司にあたる警視庁谷中警察署の
署長だった。杉野という肥満の警視だ。
署長は民雄に聞いた。
「親爺さんはどこだ?どこに行ってるんだ?」
あきらかに非難のこもった声だった。
「父さんは」と、民雄は周囲を素早く見渡してから言った。「いま、さっきまでいました。ここ
で、みんな離れてろ、って」
「いないじゃないか。ここは親爺さんの受け持ち区域だぞ。駐在所のすぐ横なんだぞ」
「いたんです」民雄は言った。「ここに、さっきまでいたんです」
そのとき大きな破砕音があった。民雄が塔に目を向けると、塔の二層目の軒が崩れ落ちるとこ
ろだった。火の粉が舞い散った。
署長は、民雄を引っ張って言った。
「駄目だ。もっと離れてろ」
民雄は素直にその言葉に従った。母親たちのもとに駆けると、母親は何かすでによくないこと
を予測したかのような、不安げな目を民雄に向けてきた。
民雄がうなずいたとき、また塔の一部が崩れ落ちた。
昭和三十二年七月、ようやく梅雨も明けようかという時期の、未明のことだった。
|