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 孤宿の人 上
著者
宮部みゆき/著
出版社
新人物往来社
定価
税込価格 1,890円
第一刷発行
2005/06
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ISBN 4-404-03257-9
 
新境地を拓く 傑作の誕生! 幕府の流罪人が災変を招き寄せる!
 

本の要約

讃岐国丸海藩―この地に幕府の罪人・加賀殿が流されてくることに。海うさぎが飛ぶ夏の嵐の日、加賀殿の所業をなぞるかのように不可解な毒死や怪異が小藩を襲う・・・。新境地を拓く傑作の誕生!待望の宮部ワールド最新作。



オススメな本 内容抜粋

海うさぎ


夜明けの海に、うさぎが飛んでいる。
井戸端で顔を洗うと、ほうはわざと手拭いを使わず、ぐん!と頭を振って水滴を跳ね飛ばし
た。心地よく澄んだ夏の朝、みるみるうちに額や頬が乾いてゆく。目が覚めてゆく。
気づいてみれば、この井上の家で日々を過ごすようになって、半年が過ぎた。ここに来たばか
りのころは、井戸端からながめる景色のあまりの素晴らしさに、水を汲んだり洗い物をするたび
に、やっぱりこうして手を止めては見とれたものだった。そんなところに来合わせると、琴江さ
まはいつも優しく、海を指さし、空を仰いでは、その日その日の海の色の違いや、季節ごとの潮
の流れの道筋や、夕べの波の立ち具合で明日の天気を占えることや、あれこれの星の名前を教え
てくださった。
「ほう、見てごらんなさい。風はこんなに静かなのに、海には白い小さな波が、たくさん立ち騒いでいるでしょう。ああいうとき、この土地の者は”うさぎが飛んでいる”というのよ。うさぎ
が飛ぶと、今はお天気がどんなに晴れていても、半日と経たないうちに大風が吹いて雨がくるも
のなの。だから、海にうさぎを見ると、漁師は早くに舟を返してしまうし、紅貝染めの塔屋で
は樽に覆いをかけてしまいます。遠目で見ると、小さくて白くてきれいなうさぎだけれど、それ
は、空と海が荒れる前触れなのですよ」
ここに根づいて暮らせば、そうした事どもも、すぐに覚えることができるだろう、覚えればま
たこの土地に親しみがわくだろうと、琴江さまはおっしやった。たった一人、見知らぬ土地に取
り残されたほうにとっては、その言葉がどれほど有り難いものだったか、半年前よりは少しばか
り知恵がつき、しっかりしてきた今となっても、とうてい言い表すことなどできはしない。
ほうは裡を締め直すと、元気よくがらがらと釣瓶を引っ張って水を汲んだ。夏のあいだ、毎朝
こうして、冷たい汲み上げの水をお屋敷の皆様の洗面にお持ちするのが、ほうの役目のひとつだ
からである。
朝の煮炊きも、洗面のお世話も、ほうのような者にはとうてい任せられないが、水を運ぶくら
いなら力さえあればいいのだから用が足りるだろうと、しずさんはいつも言っている。自分の足
りないところについては、今さら言われるまでもなく、ほうはよく承知している。なにしろ名前
の「ほう」は、阿呆のほうだ。
十年前の大晦日ーあとほんの半刻で御来光がさしかけ、新しい年が始まるというその時に、
難産の末にほうは生まれた。江戸市中、内神田の建具商「萬屋」の、じめじめして陽のあたら
ない女中部屋で。
ほうのおっかさんという人は、煮くずれた芋のようにぐずぐずとだらしのない女で、怠け者で、
そのくせ強欲で、男たらしであったそうである。もっともこれは、ほうが萬屋の人たちから聞か
された話だから、おっかさんにはおっかさんの言い分があったかもしれない。だが、それを聞く
機会はなかった。ほうを生んだ後、間もなくおっかさんは死んだ。
ほうは、おっかさんが萬屋の若旦那と通じてこしらえた子供だった。最初から、萬屋にとって
は仇であった。育たずに死ぬことを望まれた赤子であった。おっかさんが死んでしまったのだか
ら、なおさらだ。だが、ほうは生き延びた。
萬屋としても、赤子の生きる力が足りずに死ぬならいいが、若旦那の胤だとわかっているのを、
敢えて手にかけるのは後生が悪い。仕方なしに、半月、ひと月、ふた月とほうを生かしておいた。
そして三月目に、諦めたようにため息混じりで名前をつけた。それが「ほう」だ。名付け親はそ
のころの萬屋の主人、若旦那の父親だ。本当は若旦那を「この阿呆めが」と叱りつけたい気持ち
を、赤子の名前に込めたのだろう。
そうしてほうは萬屋を出され、お店の奉公人の誰かの縁戚だという家に預けられ、八つになる
まで、そこで育った。金貸しの老夫婦二人の家で、ほうが曲がりなりにも物心ついたころには、
二人とも神様より年寄りに見えた。ほうを引き取ったのも、老後の面倒をみさせようという目的
があったからだ。萬屋では、毎月いくばくかの金子を、預かり料として包んでいたようだが、老
夫婦は金ならそこそこ持っていた。ただ、元気に立ち働く手足を失いつつあっただけである。


(本文P. 7〜8より引用)



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