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 さくら
著者
西加奈子/著
出版社
小学館
定価
税込価格 1470円
第一刷発行
2005/03
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ISBN 4-09-386147-1
 
いままで本を読んで泣いたことは、一度もありませんでした。でも、この作品を読んではじめて涙をこぼしました。
 

本の要約
一生に一度、ちっぽけな家族に起こった奇蹟   スーパースターのような存在だった兄は、ある事故に巻き込まれ、自殺した。誰もが振り向く超美形の妹は、兄の死後、内に籠もった。母も過食と飲酒に溺れた。僕も実家を離れ東京の大学に入った。あとは、見つけてきたときに尻尾に桜の花びらをつけていたことから「サクラ」となづけられた年老いた犬が一匹だけ――。そんな一家の灯火が消えてしまいそうな、ある年の暮れのこと。僕は、何かに衝き動かされるように、年末年始を一緒に過ごしたいとせがむ恋人を置き去りにして、実家に帰った。「年末、家に帰ります。おとうさん」。僕の手には、スーパーのチラシの裏の余白に微弱な筆圧で書かれた家出した父からの手紙が握られていた――。



オススメな本 内容抜粋

つぼみ

僕の手には今、一枚の広告がある。
色の槌せたバナナの、陰鬱な黄色。
折りたたみ自転車の、なんだか胡散臭いブルー。
そして何かの肉の、その嫌らしい赤と、脂肪の濁った白。
なんてことはない、それはただの広告だ。
手に取るとつるつると光っていて、でも滑らかな、という手触りでもない。
「ぴかぴかに磨いているけど古臭い車」という感じ。
違うか、「もったいぶってるけど実は安いお皿」、いや何でもいい。
とにかくそれは、ただの広告。
「レトルト食品二割引」
「当店は年末年始も休まず営業します!」
「消費税五%還元セール!」
「お正月の準備は万全ですか?」
僕が何故そんなものを繁々と見つめているかというと、その答えは裏側にある。よく見ると、薄く文字が見える。
油性のマジックでやっと耐えうるそいつに、あろうことかHくらいの薄さの鉛筆書きだ。光の当て具合で文字が見えたり見えなかったり、しかも書いている本人の筆圧の具合で、ほとんど読めないところもある。
それでも苦労して解読していると、例えば
「寒椿が綺麗ですね。赤いのはよく見ますが白いのは……」
あとは
「自分で梅酒を作ってみました。作り方は……」
つまり相当他愛が無い。
でもまるで、それが重大な化学式であるかのように、世界をゆるがす預言書であるかのように書き綴られていて、いやそれは大げさ、ただ書き手は、表同様空間を埋めることだけに腐心しているみたいだ。
小さな小さな文字でびっしりと書かれてある。
ちょっと右肩あがりのその文字は、僕にはとても懐かしいものだ。
僕に字を教えたときの、あの字。
それは父さんからの、二年ぶりの手紙だった。
その日僕は久しぶりに彼女に会って、久しぶりだったのに、何だかつまらないことで気まずくなって(彼女が楽しみにしてるドラマを僕がけなした)、なんとなく嫌な気持ちのまま深夜家へ帰ると、ポストに手紙が入っていた。
僕の家は美竹荘といって、でも全然竹の青の清々しさや、まっすぐ伸びたそれの凛とした美しさは無い。
どちらかというと鉄の錆びた赤茶色やどこからか飛んできた煤の灰色で、小さいけれど寂れた鉄板工場のような趣。
きっと大家が竹田とかそんな名前なんだろうと思って挨拶に行ったら大久保さんで、何だかいまいぢよく分らない住まいだ。
ポストは玄関に共同になっていて、それぞれ自分宛の手紙を取って行く仕組み、
「プライバシーが無い。」
と彼女が怒っていたけど、僕は別に人に見られて困るものなんて無いので平気だ。
さて大抵僕宛の手紙はガス・水道・電気の公共料金、母親からの桜色の封筒(裏に「おかあさん」、封筒を開けるところに「つぼみ」と書いてあるのが恥ずかしい)、後は大学から来る出席日数が足りてないぜ、卒業やばいぜ的なおどしの手紙だ。
だから、
「長谷川 薫 様」
汚い、明らかに男の字で書かれた茶色い封筒を見つけたときは、自分宛のものだと分るのに少し時間がかかった。
部屋に入る前に封筒の裏を見たのだけど、見た途端、しやっくりが止まらなくなった。
驚いたとき、よく出るのだ。
差出人は
「長谷川昭夫」
そこにはしっかり「つぼみ」と書いてあって、そう、そのうえ文面の最後にこうあった。
「年末、家に帰ります。おとうさん」
しやっくりが止まった。驚きすぎると止まるのだ。
年末は彼女と過ごすことになっていた。
特別何をするというわけでも無いけど、
「どうしても一緒に新しい年を迎えたい。」
と言う。別にすることも無いし、最近彼女が髪型を変えて、それが結構気に入ってるので「いいよ。」と言っておいた。それでも手紙を読んだ途端、彼女への言い訳をすでに考えている自分が、すごく情けなかった。
「君の髪の様子がすごく気に入ったから、僕も変えたくなった。いや信頼できる床屋が実家にしかないんだ。何しろこんな小さいときからずうっと僕の髪を触っているからね。」
「君が嫌だと言うからこんな風に喋るけどね、ほら、僕本当は関西弁なんだ。久しぶりに故郷の言葉を思い切り話したくなって!まいどまいどー!」
散々考えた挙句、自転車の鍵を取りながら思いついたのが、これだ。
「飼ってる犬に逢いたくなった。」
僕の犬の名前は、サクラという。
白に黒ぶちの雑種で、中型の掃除機くらいの大きさ、足元が黒くて長靴を履いているみたいに 見える。
鼻の頭にもそばかすみたいな黒い斑点がついていて、お世辞にも素敵な犬とはいえない。
一応女の子だけど、サクラという名前を言わない限り、皆オス犬だと思うような冴えない風貌で、でも僕は、首根っこを後ろ足で掻くときの優しい仕草とか、土の匂いを嗅ぎながらゆっくりと移動する不遜な態度とか、それはまるで人間の女の子みたいな、たおやかで、拶くて、それでいて力強いものを感じさせて好きだ。
今年で十二歳、犬にしたらかなりのおばあちゃんだ。
言い訳として考えたことだけど、一度サクラのことを思い出すと、もうそれ以外考えられなくなった。
サクラのちょっと硬い背中の毛、僕の手を優しく押す肉球、走り出すときの後ろ足の筋肉、そんなことを考えていると、いてもたってもいられなくなった。
サクラに会わなければ!
それはもう、僕の使命みたいになった。
「歯の噛み合せなのよね、結局。普通に噛んでると思ってても、やっぱりずれてるのよ、人間。若いうちはいいわよ、体力もあるしどれだけ重いもの持ったって、ねえ。あたしだって昔は、重いスキー板かついでよく旅行行ったのよ。でもそれがあたしたちみたいに四十年も五十年も同じ歯で噛んでてみなさいよ、そりゃガタがくるわよぉ。」
年末の新幹線は乗車率二〇〇%、それはつまり東京から大阪まで約三時間、知らない人と体をぴたりとくっつけていないといけないということだ。
早速気分が悪くなった僕がトイレの順番待ちをしていると、洗面台のところでおばさんがふたり話し込んでいた。新幹線が揺れるたびにお互いの肩にしがみついているけど、どちらもふらふらしているので、あまり意昧が無い。
「だからね、あなたもリユックかつげないとか腕があがらないとか言ってるのは、五十肩なんかじゃないの、歯の噛み合せなのよ。」
「あたし、まだ親知らず生えてるの。」
「親知らず!?…駄目駄目、駄目よお。親が知らないどころか、もう死んじやってるじゃない。」
「あたしまだ父は生きてるんだけど。」
コ番大切なのは奥歯よ。奥歯ががっちりと噛み合ってさえいれば、背骨もまっすぐになるし、肩こりも取れるし。親知らず何本あるの?」
「全部あるのよ。」
「駄目駄目、駄目よお。あれは人間にいらない歯なのよ、尻尾と同じなの。そんなのがあったら奥歯ががっちりと噛み合わないじゃない。」
「でも、抜くのって痛いんでしょう?」
「やだあなた、三人も産んどいて痛いもくそも無いわよ。」
「四人よ。」

(本文P. 8〜13より引用)



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