テレビ朝日系連続テレビドラマ原作。蝶の撮影旅行に出かけたきり、2週間も音信不通だった父が帰ってきた。ひとりで留守番をしていた12歳の少女は喜ぶ。しかし、帰国した父はいつもと様子が違っていた―。少女の身に降りかかった、甘美で残酷な＜孤独＞の日々。柳美里、初の怪談！「もうなにも終わらなければいいのに、もうなにもはじまらなければいいのに、少女は顔を空に向けたまま哀しみの匂いを嗅いだ。あり得ないことがつぎつぎと起こる、つぎつぎと押し寄せる波みたいに・・・」

男は前へ進んでいる。
草や花や木の根や石ころを踏んで前へ前へと、夜明けと同時に宿を出て、獣道をはずれて１時間、２時間のうちは日本に残してぎた娘の顔がちらつぎ、晩飯ちゃんと食ったかな、風邪ひいたりしてないかな、まさかヘンなヤツに連れ去られてやしないだろうな、ちゃんと戸締りしてるかな、学校でいじめられたりしてないだろうか、ホームから落ちたらどうしよう、などと考えていたが、太陽がのぼり、だれかが絶えず口から吐いているような湿ったなまぬるい空気を吸って、吐いて、吸って、吐いているうちに、いまコウトウキシタアゲハが現れてもおかしくないという期待と、今日もたぶん目にすることはあるまいという諦めが拮抗しながらせりあがって、緊張で背中と腕を鋼のように固めながら、はあ、はあ、はあ、と息をあえがせて木漏れ日もあまり射さない欝蒼とした木立ちのなかを前へ前へと進んでいくと、狂おしいほどの解放感のようなものに丸ごとかっさらわれて、意識ごと、からだごと、前へ、前へ、前へ……。
男はタイワンゴヨウマツの根につまずいて転んだ。
前進が途切れ、はじめて朝からなにも飲み食いしていないということに気づいて腕時計を見た。
１時１５分。まだ腹は減っ ていない。
水は飲んどかないとまずいな、これだけ汗を流してるんだから脱水症状になる。
塩も舐めとこう。
水だけだとミネラル不足で疲れやすくなるっていうしな。
男は肩紐に固定してあるチューブの吸い口を噛んで水を吸い、ゴアテックスのレインウェアのポケットから銀紙の包みを取り出して、塩を舐めた。
キイィキイィキイィィィィ、タイワンオナガが短くて甲高い鳴き声をあげた。
キイィキイィキイィィィィ……キイィキイィキイィィィィ……。
どこかに潜んでいるタイワンオナガが悲鳴のような声でお互いの存在を知らせ合い、いや、侵入者であるおれの存在を知らせ合って警戒しているのかもしれない。
キイィキイィキイィィィィ……。
男は野生の胡蝶蘭に目を転じた。
黒い影が木立ちの陰からふわっと抜け出して、蘭に止まった瞬間、翅がぎらっと光った。
コウトウキシタアゲハ。
男はニコンの一眼レフＦ５を構えてファインダーを覗ぎ込み、気配を消して一歩、一歩、カシャッ、カシャッ、カシャッ、シャッターを切る。
音を立てずに生唾を呑んで慎重にフォーカスエリアを確認し、カシャッ、カシャッ、カシャッ……おいッ、まだ動かないぞ……胡蝶蘭に頭を突っ込んで蜜を吸って……男は捕虫網をザックサイドの留め金から引き抜いた。
獲れる、獲れる、獲れる……漆黒の前翅、後翅の黄色は木漏れ日が当たると鱗粉に乱反射して真珠色の幻光が……美しい……なんて美しいんだ……胡蝶蘭ごとすくうようにして捕虫網を振った瞬間、男の足の下に地面はなかった。
ー気を失っていた？穴、だ。
４メートル、５メートル……立ちあがると、右足首に激痛が走り、よろめいてしりもちをついた。捻挫？骨折だったらヤバイな…。
男は手に握った網のなかを見た。
コウトウキシタアゲハだ。
獲った。
まだ生きてる。
男はネット越しにコウトウキシタアゲハの胸をつかんで殺し、翅の粉を落とさないように息を詰めながら取り出すと、三角形に折ったパラフィン紙につつんで三角ケースにそうっと収めた。
さて、と……男はもう一度、今度は丹念に穴の壁を見あげた。
混乱はしていない、逆に頭のなかは濁りが沈んで澄んでぎている。
なにかを落とすための穴だろうカ？