サントリーとのコラボレーションで超話題のミニ本「新潮ハーフブック」が一冊に！　 恋を読み、恋に酔う。甘くせつない痛みが胸に広がる、ひそやかな時間――5人の名手による極上の物語。川上弘美「天頂より少し下って」、小池真理子「夏の吐息」、篠田節子「夜のジンファンデル」、乃南アサ「アンバランス」、よしもとばなな「アーティチョーク」。恋のある人生を、ゆっくり、しっかり生きていきたいあなたへ――。

ずいぶん涼のことが好きだったな、と真琴は思う。
思ってから、自分がいつの間にか過去形で考えていることに気づく。
ずいぶん涼のことが好きだな。
頭の中で、いそいで真琴は言いなおす。
涼とは、じきに三年になる。
靴屋で、出会った。
枯葉の色よりもさらに渋い茶色で、甲を覆うようなデザインの靴を、その年真琴は探し歩いていたのだ。
何軒めの靴屋だっただろう、幾足もの靴を試したあげく、それでも得心のゆく靴が見つからなかった真琴がため息をついた拍子に、店員も、つい、という様子で、一緒にため息をついたのだ。
「あ、失礼しました」店員はあわてて言った。
中肉中背の、これといった特徴のない男の子だった。
真琴よりも十歳は年下にみえた。
感じのいい店員さん。いつもならばそれで終わったろうに、なぜだかそのとき真琴は顔を上げて、店員をしげしげと眺めた。
真琴に顔を上げさせたのは、店員の声だった。
年齢よりも落ちついた声だった。
深い、声だった。
ほんのかすかに喉の奥でひっかかるような、不思議な声だった。
探している靴の色みたいな印象の声。
そう思いながら、真琴は店員の喉ぼとけのあたりをじっと見つめた。
「黒ならばご用意できますが」店員はおずおずと言った。
真琴の凝視に困惑しているようだ。
「それでは、あきらめて、黒にしようかしら」真琴は言った。
真琴の言葉に、店員はほんの壬二秒考えこむような表情になった。
それから、ゆっくりと笑顔になりながら、
「あきらめるのも、いいものかもしれません」と言った。
声もよかったし、言葉も、よかった。
真琴はそれから機会があるたびに同じ靴屋に行くようになった。
「あきらめるのも、いいものなの？」後日、恋愛が始まってから、ときどき真琴は涼に訊ねるようになる。
「そんなこと、おれ、言ったっけ」と涼は不思議そうに聞き返す。
「言った」と真琴が言うと、涼は首を傾げる。
三年って、短いな。真琴は思う。でも、三年って、きっと涼にとっては、長い時間なんだろうな。同時に思う。
結局あの時、探していた枯葉色の靴は見つからなかった。
かわりに黒い靴を買うこともなく、じきに季節は移りかわり、真琴と涼は恋に落ちた。
恋に落ちるって、へんな言葉。真琴は思う。
四十五歳の今まで、真琴は何人かの男と恋をした。最初の恋の相手は、結婚をすることになる利幸だった。
高校の時だった。
大学に入ってからすぐに学生結婚をし、翌々年真幸が生まれた。
真琴の「真」と利幸の「幸」をとって、真幸と名づけた。
よく泣く子だった。
三十歳になる直前に、離婚をした。真幸の親権は真琴が得た。
利幸に恋人ができた、というのが離婚の理由だったこともあって。
利幸の「恋人」には、一回だけ会ったことがある。どことなく真琴に似た感じの「恋人」だった。
なにも同じタイプの女を選ばなくとも、と思ったが、仕事と離婚のあれこれと真幸を育てる忙しさに負けて（実際、まぎれて、というよりも、負けて、という言葉がぴったりだったと、真琴はときどき思い返す。離婚は嫌だと主張しつづける、だの、二人の間の問題点を掘り下げる、だの、利幸が真琴の方を振り向くようこまやかな策をめぐらす、だのいうことごとを行う、時間的・精神的余裕が、あのころの自分にはまったくなかった。
ただの言い訳かもしれないけれど）、利幸にそのことを指摘する機会はなかった。
離婚は、比較的すんなりと、成立した。