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 グランド・フィナーレ
著者
阿部和重/著
出版社
講談社
定価
税込価格 1470円
第一刷発行
2005/02
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ISBN 4-06-212793-8
 
芥川賞受賞作 文学が、ようやく阿部和重に追いついた。
 
グランド・フィナーレ 阿部和重/著

本の要約

【第132回芥川賞受賞作】終わり、それとも始まり……神町を巡る物語。「グランドフィナーレ」という名の終わりの始まり。毎日出版文化賞、伊藤整賞W受賞作「シンセミア」に続く、二人の少女と一人の男を巡る新たなる神町の物語。



オススメな本 内容抜粋

可愛らしいピンク色のウサギと青色の子グマが手を繋いで横に並び、眼前に立ちはだかっている。
どちらも一丁前に小酒落た洋服を着込み、頭に花飾りなどを付けて粋がっている。
どこからか、バニラ風の甘い香りが放たれてもいるようだが、微かな程度にすぎず、嗅ぎとった直後に消え失せてしまった。
傍らを通りすぎていった年配の女性客が付けている化粧品の匂いか、ベビーボーロとかミルクプリンとかの菓子類を食したばかりの赤ちゃんの口臭が、空調の風に乗ってわたしの鼻先に届けられたのかもしれない。
進路妨害に出た二匹は、忽ち顔だけを肥大させると、バスのエアブレーキみたいなぷしゅーという鼻息を鳴らしながらこちらを威嚇しだした。大口を開け、それぞれに鋭い牙を剥き出しにし、血走った眼を見開いて睨みを利かせているつもりのようだが、所詮は愛くるしいキャラクターたちにすぎない。そうした、日頃は人々の心和ませるファンシーな連中が、どんなに恐ろしい形相をつくって凄んでみせたところで、大の大人であるこのわたしを撃退することなど出来やしまい。
だから少しは頭を冷やして、キャンディーやらチョコレートやらが床一面に敷き詰めてある、年がら年中ヒトデみたいなお星さまが浮かんでいて室内にさえ鮮明な虹が架かっている、
あのパステルカラーに彩られた奥行きのない世界へさっさとおかえり。それも叶わぬというのならば、直ちにこの俺をぶち殺してくれたまえ君たち一
いちおうはイタリア製のスレートブルーのシルク混紡スーツなどを着て粧し込み、お目当てのブランドのカタログをこれ見よがしに携えているくらいなのだから、わたしが冷やかしの類いでないことは、他人の目から見ても明白なはずだったーピンクのギンガムチェック柄のリボンが掛けられた箱入りのそのカタログは、ネットオークションで一〇〇〇円の値を付けて落札したものだ。
わたし自身にしても、このときばかりは、フロアの到る箇所に設置してある姿見に映じた場違いな自分と不意に向き合っても、自責とか自戒とかの念に駆られることはなかろうと高を括っていたー何しろ今日のわたしは、税込み価格三万一二九〇円の洋服を買い求めに来た、ちっとも不自然なところなどない、れっきとした客なのだから。父親の資格を奪われたからといって、百貨店の子供服売場を客として訪れる権利すら失われたわけではあるまい。
美しい紺ベロア地のフォーマルドレスの購入をすでに決めていたわたしは、当のアイテムを手に入れるだけですぐさま、まるでロールプレイングとかいうゲームのシステムみたいに次のステージヘの道が開けるかのごとく信じ込みーというか信じ込もうと努力しながら、明るい見通しを立てていたのだ。
ところが出し抜けに、小生意気なウサギと子グマに通せんぽされた途端、娘のもとへ辿り着くのが尚更に難しくなっちまったかに思えてしまい、辛い記憶が甦り、足も重たくなってきて、わたしはほとんど吐きそうだった。
デジタルメディアによるコミュニケーションが一般化した一二世紀の今日にあってさえ、古城に幽閉されたお姫さまとの再会は困難きわまりないというわけだ。
指一本ふれることすら許されぬ娘との距離の遠さを再認識させられたわたしにとって、半導体技術はもはや何の手助けにもなってくれず、子供服売場は地獄の釜の底みたいに灼熱を帯び、両方の目玉が破裂しそうなほどに真っ赤に染まり上がっていた。
ちーちゃんーいちごみるくとマイメロディが大好きなわたしの一人娘。
道端で転んで擦り剥いた膝小僧をパパの唾液で消毒してもらいたがる、わたしの愛娘─ちはる。
ちはるは漢字で「千春」と記すが(古例に倣ったわけではないものの、名づけ親は彼女の母方の祖父である)、わたしはひらがなで「ちはる」と示すほうが気に入っているし、ちはる自身はいつも「ちーちゃん」と呼ばれたがっている。
わたしは本日、彼女にちーちゃんと呼びかけることが果たして出来るのだろうか。
糞忌々しいことに、この期に及んで迷いが生じているー何とも情けない話だが、今更ながらわたしは、二の足を踏んでいるのだと自覚せざるを得なかった。
どっちみち、単なる図像にすぎぬ子グマやウサギどもから敵意を向けられる謂れはないのだから、お前は先を急ぐべきであるーちっちゃな黄色いアヒルが横から登場し、肝の据わった声でわたしにこう助言してくれた。
わたしは目下、誰彼かまわず縫りたい心持ちでいたから、こういうのは願ってもない展開ではあった。
あのハート模様が鐘められた、丸っこくてふんわりとした幸福感あふれるマシュマロみたいな世界の只中へと、お前こそがさっさと歩み入り、子連れの主婦や若夫婦らに紛れて何食わぬ顔をして買い物を済ませてしまえばいいのだ。そうすれば、お前はますます引っ込みが付かなくなり、古惚けた小城を取り囲む邪魔な砦棚を乗り越える意気込みも自ずと湧いてくるだろう。
血が通ってもいないくせにえらく頼もしい、トゥイーティーと見分けが付かぬ容貌のアヒルはかたかたと階を開け閉めして、そんなふうにわたしを促した。怖じ気づきかけていたわたしとしては、これに黙って従うしかない。
「お客様、こちらの商品でございますが、サイズのほうは、いくつをお求めでしょうか?」
「そうだな、130のがあれば、申し分ないんだが」

 

(本文P. 5〜7より引用)



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