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 赤い長靴
著者
江国香織 /著
出版社
文芸春秋
定価
税込価格 1470円
第一刷発行
2005/01
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ISBN 4-16-323610-4
 
夫の背中に向かってひとり微笑む日和子。危ういけれどかけがえのない、夫婦というもの。江國ワールドが新展開する注目の連作短篇
 
赤い長靴 江国香織 /著

本の要約

それから日和子は笑いだしてしまう。くすくすと、そしてからからと。笑うことと泣くことは似ている。結婚して十年、幸福と呼びたいくらいな愉快さとうすら寒いかなしみ、安心でさびしく、所在なく…。日々たゆたう心の動きをとらえた怖いくらいに美しい、連作短篇小説集。

「私と別れても、逍ちゃんはきっと大丈夫ね」そう言って日和子は笑う、くすくすと。笑うことと泣くこととは似ている……。日和子と逍三、結婚して10年、子どもはいない。
定評のある、繊細で透明な文体が切り取る夫婦の情景――ささやかだけどかけがえのない日常、ふいによぎる影。何かが起こる予感をはらみつつ、怖いくらいに美しい、14の物語が展開します。
江國ワールドが新しい境地を切り開いた、注目の連作短篇集です。



オススメな本 内容抜粋

東北新幹線というものは、どうしてこううら淋しい風情なんだろう。
日和子は、東京駅のホームで、柔かいウールのオーバーの衿をかきあわせた。足元に置いた紙袋には、遭三の母親の好きな、マカロンが入っている。
淡い黄色やピンク色をした、玩具みたいな焼菓子だ。
東京にはあんまりおいしいものがないけど。
迫三の母親は、いつもそう言う。東京にはあんまりおいしいものがないけど、でも日和子さんが選んでくるものは、わりとおいしいわ。
日和子には、無論その言い方は気に入らなかったけれど、それでも相手が努力して自分をほめようとしているのだということはわかった。
風がつめたい。
夜のプラット・ホームは、蛍光灯の下でばかにあかるい。
いつもなら、横に遭三がいる。
立ったまま週刊誌を読んでいる。
電信柱みたいなひとだ。
日和子はよくそう思う。
出会ったころから、そう思っていた。きょうは、その電信柱がいない。
迫三と結婚をして、十年になる。
十年という歳月は、日和子には、でもなんとなく実感が涌かない。
新婚ではないが、落着いた夫婦というふうにも感じられない。ただふわふわと漂っている。
ただふわふわと、寄る辺もなく。
子供がいないせいかもしれない。
一人で、夜に、外出するのはひさしぶりのことだった。
日和子は上を向き、小さく息をすう。
空気のつめたさに鼻の先が痛んだ。
満月に五日ほど足りない、ふくよかな半月が見えた。
心細いなんてどうかしている。
日和子は胸の内で喧った。来年四十になろうという女が。
車内は暖房がきいていた。日和子はオーバーを脱ぎ、壁のフックにひっかけた。
座席は半分も埋まっていない。しかも、日和子の乗った車両は、連れのいない乗客ばかりだった。
ギターらしい楽器を抱えた若い男とか、いかにもくたびれた様子の、汚れたジャンパー姿で両手にカップ酒を持った初老の男とか。
それぞれが網棚に物をのせたり座席に腰をおろしたりするせわしげな音がするだけで、声というものはきこえない。
この列車はやっぱり淋しい。
日和子は、また、そう思うのだった。
「東北新幹線って、東海道新幹線よりも新しいんでしょう?それなのに、どうして車両がうす汚れてみえるのかしら?」
いつだったか、日和子は迫三にそう尋ねてみた。
「山道を走るからだろ。トンネルも多いし」
迫三は、そうこたえた。
「それだけ?ほんとうにそれだけだと思う?」
日和子には、そこにはもっと別な力が働いているように思えるのだった。
列車は、すべるように動きだした。日和子は、窓ガラスの闇に映った自分の顔を眺める。
「親父の具合いが悪いらしいんだ」
遣三にそう言われたのは、先週のことだった。夜中の台所で、にんにくと酢としょうゆに漬けた胡瓜−日和子は漬物を漬けるのが好きだーをつまみながら、そう言った。
「具合いって?」

(本文P. 9〜117より引用)



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