死体の数をいくつにするか。
まず、それから考え始める。
最初に二つ。これは確定。この二つがなければ話にならない。
それから、次の一つ。
問題は、そこからだ。
四つ目の死体には、ある「仕掛け」が必要だ。
五つ目の死体も同様。
ネるべくなら、四つで終わらせておきたいところだが、
ここから先は相手のある話なので、
こちら側の都合だけでは決められない。
四つ、五つ、いや―――
最悪、六つの死体を覚悟しなければいけないだろう。
T.H・
第一章 アンフェアなはじまり
1
六月一四日(月) 雨。
新宿区のほぼ中ほど。
繁華街の喧騒から離れ、辺りは静まり返っていた。
建設途中のまま、何年も放置されているビル。部屋の半分以上が未入居と噂されている新築マンション。更地にはしたものの、買い手がつかないまま雑草だらけになっている地所。そんな、未だ解消されないバブルの遺産たちを横目に眺めながら、龍居まどかは早足で歩いていた。
門限の二二時を、一五分ほど過ぎてしまっている。
梅雨特有の湿った空気が、夜の冷気に押されてじっとりとまどかの制服にまとわりつき、彼女の行き足を邪魔していた。シャンプーのコマーシャルに出られそうな、自慢のサラサラの黒髪が、額に張り付くのも不快だった。
―――今日こそ早く帰るつもりだったのに、もう。
まどかは、ひとり、つぶやく。
両親の機嫌を、今以上に損ねるわけにはいかない。
あとひと月もすれば、高校生活最後の夏休みがやってくる。その夏休みを利用して、ふたりきりで旅行に行こうと、まどかは同級生の勢田トオルに申し込まれている。
旅行。
ふたりきりで、旅行。
まどかは、その旅行を実現させるためのシミュレーションを、既に七通りは考えていた。特に大事なのは、母親に旅行の話を切り出すタイミングだ。それが、最初にして最大の関門。母親の上機嫌の瞬間を、きちんと押さえなければならない。
―――やっぱり、走ろう。
同じ門限破りでも、三〇分以内のものと、それ以上の場合とでは、母親の怒りの持続時間が倍以上違うことを、まどかは知っていた。
視線の先に、公園の入口が見えた。
いつもなら、その公園は通らない。以前に同級生が何度か、露出狂の痴漢に遭遇したことがあるからだ。でも、その公園を斜めに駆け抜ければ、家に帰り着く時間が五分縮められるのも事実だった。
肩のかばんを斜めに掛け直し、まどかは走り出す。
露出狂がなんだ。男の裸くらい、これからはいくらだって見るのだ。怖がることなんてない。そう自分に言い聞かせながら走った。唇に、別れ際の勢田トオルの感触がまだ残っていた。それも、まどかを勇気付けた。
二〇〇メートルくらい走っただろうか。
いきなり、派手に転倒した。遊歩道が緩やかにカーブしていて先があまり見通せなかったのと、公園の中の照明があまりに暗いせいで、遊歩道のど真ん中に横たわっていた黒い障害物にまどかは気づかなかった。まどかは、すりむいた両肘を押さえながら、そのいまいましい障害物を睨んだ。
その時だった。
背後の茂みの中から、声がふわりと浮かんだ。
「これが、リアリティ」
―――出た! 露出狂!
が、霧雨に濡れた植え込みの中から姿を現したその人影は、きちんと服を着ていた。局部どころか、シャツの第一ボタンまでぴっちりと締めていた。その代わり―――手に、鈍く光る何かを持っていた。
「そして、オリジナリティ」
凛とした温かな声の張りが、極めて状況にそぐわなかった。
言葉の意味も不明だった。
まどかは、後ずさりをした。が、すぐに、後ろには下がれなくなった。さっき蹴躓いた障害物が、またもやまどかの行く手を阻んでいた。
人だった。
倒れ込んだまま、ピクリとも動かない男の体。
顔の左半分に大きな穴があり、そこから溢れ出した大量の血が、辺り一面をどす黒く覆っている。その穴が、左の眼球を抉り出された跡だとわかるのに、まどかは更に数秒を要した。
驚愕と恐怖が彼女を縛り、その声帯を凍りつかせる。
大声で叫びたいのに、叫びたいのに、叫びたいのに―――小さな悲鳴すら、彼女は搾り出すことが出来なかった。
―――T.H著 『推理小説・上巻』第一章の1より抜粋
2
雪平夏見の携帯電話の呼び出し音は、常に最大ヴォリュームに設定されている。
が、それでも、深夜二時を回った後の彼女を起こすには不十分だった。
携帯電話メーカーは、少なくとも、今の三倍の音量まで設定可能にすべきだと安藤一之は思う。
自分の携帯電話を車の助手席の上に放り投げ、乱暴にアクセルを踏む。安藤の住む市ヶ谷から、雪平の住む中目黒に、それから、新宿区戸山の事件現場に―――深夜とは言え、三〇分以上のロスは確実だ。山路課長の叱責の声が、安藤には聞こえるようだった。
「それは、おまえの責任だ(カチャカチャ)」
「おまえがきちんと(カチャカチャ)」
「おまえさえちゃんと雪平のフォローをしていれば(カチャカチャカチャ)」
磨き上げた銀のジッポ・ライターのふたをカチャカチャさせながら、部下に小言を言うのが、苛立った時の山路の癖だった。あれをやられると、こちらの苛立ちも倍増する。山路は、決して雪平のことは叱らない。山路だけではない。捜査一課の人間で、雪平にあれこれ物を言う人間はいない。言われるのは常に安藤だ。雪平に関するすべてのしわ寄せは、相棒である安藤ひとりに押し寄せる。
―――本気で引越しを考えた方がいいかもしれないな。雪平の近くのマンションに、いや、いっそ同じマンションに住んでしまおうか。
外苑西通りから明治通りを経て駒沢通りへ。そして、山手通りをわずかに左。
安藤は乱暴に車を道路脇に寄せると、エレベーターは使わずに非常階段を駆け上がった。ポケットから鍵を取り出す。雪平の部屋の合鍵は、自分の部屋の鍵と一緒にしてある。今年の四月、捜査一課に着任した際、課長の山路からこれを渡されたときは、何かの冗談かと思ったものだ。仮にも、独身女性の部屋の鍵である。
「この鍵は、二四時間持ち歩くこと」
山路は、にこりともせずにそう言った。
以来、安藤は、月に二回以上のペースで、この合鍵を使う羽目に陥っている。
玄関のブザーを立て続けに五回ほど押す。
もちろん、室内からの反応はない。
合鍵を使って中に入る。
ありがたいことに、室内のあかりは点けっぱなしになっている。雪平の脳内に、寝る前にあかりを消すという回路はないらしい。
靴を脱ぎ、部屋の奥へと進む。本当は、靴のままあがり込みたいところだが、それはグッと堪えた。そのために、安藤はわざわざグレーの靴下を履いてきたのだ。白い靴下で雪平の部屋に入ってしまうと、そのあと何度洗濯しても落ちることのない汚れがこびりつく。
―――それにしても……
どこをどうすると、ひとりの人間がここまで部屋を汚せるのだろうか。
スポーツ新聞、エロ四コマばかり載せているマンガ雑誌、食べかけのカップ麺、食べかけのポテトチップス、食べかけのマカロニサラダ、無数のコンビニの空き袋、ケンタッキーフライドチキンのカーネル・サンダースの頭だけ、引きちぎられた駐禁の黄色い輪っか、地球儀、熊の着ぐるみ(誰が着るのか)、祭りで売られているビニール風船の王冠―――足りないのは死体くらいのものだ。それらを飛び越え、踏み越え、安藤はまずキッチンに行き水を汲む。そして、今度は奥の寝室へと向かう。
いびきが聞こえてくる。
雪平夏見は服を着たまま眠っていた。
安藤は少しだけ胸を撫で下ろす。
雪平夏見は、酔うとしばしば全裸で寝る。彼女のフル・ヌードを、安藤は何度か拝見していた。三〇代後半の女性の裸とは思えない極上のプロポーション。大きな乳房には若々しいハリがあり、ウエストはきちんとくびれている。下腹部に無駄な脂肪はなく、肌は透き通るような白。しかし、いくら美しい裸でも、殺人事件の夜、それも、現場に急行命令が出されている夜に見せられては、嬉しくもなんともない。
今夜は服を着ていた。
これで、時間が五分助かる。
「雪平さん、起きてください。雪平さん!」
乱暴に肩を揺すり、何発も頬を叩く。
「事件ですよ。殺人事件」
雪平の美しい顔が醜く歪む。
そう。雪平夏見は美人なのである。無駄に美人―――安藤はこのフレーズが気に入っていた。無駄に美人。これ以上、的確に雪平を表現することが出来るだろうかと安藤は思う。
「うるさい」
一三発ほど頬を叩いた時点で、ようやく雪平は第一声を発する。
その口に、安藤は水道水を流し込む。コップの縁がひどく汚れてはいたが、気にはしないことにする。
「もう飲めない」
「雪平さん、殺人事件です」
「行きたくない」
「新宿の公園で、ふたり殺されています。ひとりは、都立高校の制服を着ているそうです」
「興味ない」
「雪平刑事!」
雪平はまたもやいびきをかき始め、安藤は雪平に殺意に近い感情を抱く。
―――世の中、おかしなことが多すぎる。
―――どうしてこの女が、警視庁捜査一課で検挙率ナンバーワンなのだ。
―――間違っている。何かが、間違っている。
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