1 痛恨の症例
八階の事務所から見える阪神高速が、摂氏三十五度の熱気で歪んでいる。
大阪の夏ほど不快な暑さは、ほかにないのではないか。
アスファルトの照り返しは厳しく、緑は少なく、空気は汚れ、どぎつい看板と車の騒音が神経を苛立たせる。
松野公造は、窓から射し込む光に思わず顔をしかめた。
壁際に目をそらすと、書棚にはここ二、三年に集めた医療関係の本がならんでいる。
がん告知、医療ミス、誤診、医療裁判、いずれもノンフィクションの執筆に使用したものだ。
松野はこの七月に二十二年間勤めた新聞社を退社し、個人事務所を開いたばかりだった。ノンフィクション作家として世に出るための、いわば背水の陣での再出発だった。
先行きに不安はあったが、思いがけない巡り合わせで願ってもない題材を得ることができた。現役の医師による隠れた医療現場の証言である。
最初の証言テープが届いたのは、四日前だった。
その内容は、松野が予想していたよりはるかに衝撃的だった。
つまり、あの青年医師の言葉は、あながち大げさではなかったわけだ。
ー医師は一人前になるまでに、必然的に何人かの患者を殺します。
はじめて出会った席で、江崎峻は無表情にそう言った。
そのとき、松野の脳裏には二つのことが同時に浮かんだ。
医者が患者を殺すなんて、よく平気な顔で言えるもんだという不快感がひとつ。そしてもうひとつは、こいつはもしかしたら、自分にとってまたとない宝の山になるかもしれないという期待感だった。
彼らが座っていた新阪急ホテルのラウンジは、土曜日のせいか混み合っていた。そのざわめきが、かえって二人の口を重くした。
江崎は阪都大学病院の麻酔科の医師で、年齢は三十五歳。
生まれは横須賀だが、高校二年のときに大阪に来て、今は阿倍野で独り暮らしをしているという。
秀才らしい怜割な顔立ちで、眉と目は迫っており、鼻はナイフのように尖っていた。
初対面で相手の人格まで見抜こうとするのは、元新聞記者の習性である。
松野は江崎の生真面目さの裏に潜む得体の知れないうっ屈に興味を持った。
この男はどこかバランスを欠いている。
「患者を殺すとはどういう意味ですか。もう少し詳しく説明していただけますかし松野は相手が医者であることを意識して、ことさら丁寧に聞いた。年齢からすれば自分のほうが十歳ほど年長である。しかし、気心が知れるまでは慎重に応対しなければならない。
「単なる医療ミスではありません。日本の医師養成システムの中で起こる、不可避の犠牲という意味です」
「不可避の犠牲?」
「そうです。大学を出ただけでは、医師は一人前ではありませんからね。医師国家試験は筆記だけで、実技がないんですから。医師たちは資格を得てから、患者を練習台にして腕を磨いていきます。独り立ちする過程で、治療に失敗することは当然考えられるでしょう」
患者を練習台にして……か。いちいち気に障る言葉づかいをするやつだ。
言葉に敏感な松野は、自分の反感を隠して訊ねた。
「しかし、医者が新米のあいだは、指導医とかベテランの医者がカバーするんじゃないのですか」
「手術とか胃カメラとか技術を要するものはそうです。しかし、日々の診療はほとんど主治医任せです。患者を死なす危険は、そういうところに潜んでいるのです」
「今度、厚労省が新しい研修医制度を導入しましたが、あれでは不十分だと?」
「あんなもの、上っ面をなでただけですよ」と、江崎は鼻で喧った。
「指導方法も決めず、ただ二年間の研修を義務づけただけですからね。未熟ゆえの治療の失敗は、そんな小手先の対策でなくなるものではありません」
なるほど。しかし、ではどうすればいいのか。
松野の疑問を察したように江崎はつづけた。
「医師の未熟による患者の死がどういう状況で起こっているのか、それをまず把握することです。その上で具体的な対策を講じなければなりません」
「その実例を、先生が集めてくださるというわけですか」
松野が興味深げに身を乗り出すと、江崎は逆に醒めた表情で視線をそらした。
「だれもこのままでいいとは思っていないんです。けれど、みんなが見て見ぬふりをしている。その実状を明らかにして、システムの改善を訴えなければなりません。そういう趣旨でなら、協力してくれる者はいると思います」
医者が一人前になる過程で死なせてしまう患者のことを、江崎は“痛恨の症例”と呼んだ。医者ならだれでも少なからず経験している。江崎はまず自分の周囲から、証言を集めてみると約束した。
「期待しています。きっと画期的なルポになるでしょう」
眉の濃い暑苦しい風貌の松野が、熱い目で江崎を見た。
これまで喜貝して反権力の立場を通してきた松野は、医者にも厳しい目を注いできた。
江崎の申し出は、医者の権威を徹底検証する絶好の機会だ。しかし、まだ半信半疑でもあった。
江崎が思うほど簡単に、医者が自分の失態を打ち明けるとは思えなかったからだ。
それから五日後、江崎は最初の証言テープを送ってきた。
それは彼が口先だけの人間でないことを証明するのに十分な内容だった。
松野はすぐにアルバイトにテープ起こしをさせ、江崎に専門用語などをチェックしてもらった。
原稿はA4サイズの紙五枚にびっしり印刷されている。
松野はファイルからそれを取り出して、もう一度読みはじめた。
ルポルタージュ「痛恨の症例」証言1
・録音二〇〇×年八月十一日於阪都大学医学部付属病院内「喫茶カトレア」
・インタビュアー阪都大学麻酔科江崎峻氏
・証言者阪都大学内分泌外科児玉克也氏
(江崎氏の同級生)
─児玉先生、今日は忙しいところ、どうもありがとう。
さっそく録音させてもらってますが(笑)、緊張しないでいつもの調子でお願いします。いろいろ言いにくいこともあるだろうけど、プライバシーの保護には必ず責任を持ちますので……。
さて、今日聞きたいのは、今から十年前、ぼくらが研修医のとき、先生が当直のアルバイトで経験した痛恨の症例のことなんですが。
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