BOOKSルーエのおすすめ本 画像
 I’m sorry,mama.
著者
桐野 夏生 著
出版社
集英社
定価
税込価格 1470円
第一刷発行
2004/11
e-honからご注文 画像
ISBN 4-08-774729-8
 
桐野 夏生 最新作!  柴田錬三郎賞受賞 第一作 かつて女であった怪物たちへ、そして、これらの怪物になる女たちへ捧ぐ、衝撃の問題作!
 
I’m sorry,mama. 桐野 夏生

本の要約

人はどこまで邪悪になれるのか。児童福祉施設の保育士だった美佐江が、自宅アパートで25歳年下の夫と共に焼死した。事件の背景に盗み、殺人、逃亡を繰り返す女、アイ子の姿が見える時、更なる事件が引き起こされる。



オススメな本 内容抜粋

愛の船に乗った子供たち

春の宵、門田夫婦は結婚二十周年の食事に出かけるところだった。
久しぶりの外食に浮かれた美佐江は、東中野の錦華苑でなきゃ嫌だ、と稔が言い張るのでがっかりした。服に焼肉の臭いが付いてしまう。
美佐江は、大久保のブティックの閉店セールでやっと手に入れたミッソー二もどきのニットスーツを着ていた。
太った美佐江が着ると編み目が横に広がり過ぎるのだが、赤青黄緑の色合いが実にお顔映りを良くしますねえ、とパンチパーマの店主に褒められた自慢の服だった。
美佐江は函館市場に行きたかった。
半分凍ったマグロを載せた握りが何度も巡って来る様を思い浮かべると唾が溜まる。ああ、お鮨が食べたい。
「焼肉って決めてたんなら、最初から言ってくれればいいのに」
美佐江の小言をよそに、稔は張り切って指を折っている。
「上カルビ、上ハラミ、ミノ、ネギタン塩、ピートロ、ホルモン、キムチ盛り合わせ、チャプチェ。余力があればチヂミ食って、仕上げにビビンバかクッパ。チゲもいいな。それともカルビは特上にして余計な物を落とすかだよ」
「ロースも頼んでよね」
美佐江は抗議したが、中野の狭い路地を先に行く稔の耳には届かないらしい。
その足取りはスキップでも踏みそうに弾んでいた。
色槌せた大き目のジーンズにパーカー。
整髪料で逆立てた茶髪。
アーティストっぽく、顎髪を少し伸ばしている。
貧相な小男の稔は中年になっても三十代前半にしか見えない。
たかが焼肉で喜んでいる夫の姿を、美佐江は背後から観察した。
永遠の子供。
二十五歳年下の夫。
一緒に住み始めた頃、美佐江が「母ちゃんって呼んでいいよ」と言ってやったら、稔は小さな声で囁くだけで、決して人前では言わなかったものだ。
なのに、今は堂々と「母ちゃん」と大声で呼んで憚らない。
子供もいない自分が夫に「母ちゃん」と呼ばれるのは、正直言って嫌だ。
稔が、夫婦ではなく初老の母親と壮年の息子と誤解してくれ、と周囲に触れ回っているように感じられるから。
二人きりの時の稔は可愛いが、不必要に世間に見栄を張る癖だけは気に入らない。
それとも、急に老けてお婆さんになった自分が、いつまでも妻として見られたいと焦っているのだろうか。
どうも後者らしい。
美佐江はもっと若造りして頑張らねば、と決意を新たにした。
「お、夫婦でお出かけ?いいねえ」
パチンコ屋の駐輪場で、自転車の鍵を掛けていた老人が顔を上げてにやりと笑った。
稔が暮れまで働いていた工務店の親父だ。
稔は返事もせずに下を向いた。
代わりに美佐江が愛想笑いをする。
親父がパチンコ屋に消えた途端、稔が強い口調で美佐江を詰った。
「母ちゃん、笑うことねえよ。あいつ、根太がしなってるのまで全部俺のせいにしやがってさ。本当は基礎工事が悪いんじゃねえか。俺は基礎関係ねえもん。俺、大工だもん。責任転嫁すんなよって。ほんと頭来るよな」
稔は腕の悪い大工だった。
稔が建てた家はよくクレームが付いた。
床鳴り、壁のひび、雨漏り、床の傾き。
ゴルフボールが捻りを上げて転がって行ったぞ、と怒りの電話が自宅にかかってきたこともある。
パチンコ狂の工務店主にリストラされたのは、すでに三ヵ月も前だ。
それまでに四回も工務店を替わっているのだから、稔は欠陥大工なのかもしれない。
なのに、稔は一向に職探しに行こうとしなかった。
先行きを考えると不安だが、六十をとうに過ぎた美佐江が働こうにも、ビル清掃くらいしかない。
それは元キャリアウーマンのプライドが許さない。
自然、二人の生活は美佐江の年金に頼らざるを得なくなった。
焼肉なんて贅沢をしてる場合じゃない。
美佐江の顔はきつくなったが、口を衝いて出る言葉は優しかった。
保育士時代の賜物だった。
「お世話になった社長にそんな言い方していいの。次の仕事だって世話してくれるかもしれないのに」
「母ちゃんさあ」稔が唇を尖らせた。
「あいつ、俺と母ちゃんのこと馬鹿にしたんだぜ。お前の奥さん、俺より年上なんだって、そりゃ大変だろうって」
美佐江の頭に血が昇ったが、稔に仕事を得させたい気持ちも強い。
「そのくらい我慢して頼んでみたら」
「それさあ、老人の発想だよ。若い奴は後ろを振り返らないよ」
「何言ってるのよ。稔ちゃんだって若くはないわよ。四十二歳じゃない」
激怒した美佐江の言葉に稔はきょとんとした顔をした。
驚いた山羊みたいだ、と美佐江は可笑しくなった。
昔、勤めていた児童福祉施設で飼っていた山羊のことを唐突に思い出した。あの山羊は何という名前だったっけ。
「ねえ、星の子学園に山羊いたじゃない。顎髪が稔ちゃんにそっくりな。あれ、何ていう名前だっけ。ほら、皆で裏のウサギ小屋を改造して小屋を作ったでしょう」
「さあ、覚えてねえよ」
星の子学園の話をすると、稔は不機嫌になる。
下町にあった星の子学園は、七年前に区の大きな福祉施設と統合され、名前が消滅したのだ。
そのニュースを聞いて悲しんだ美佐江とは逆に、稔はほっとしていた気がする。
ビニールコーティングされた錦華苑のメニューは、粘り気のある脂分に覆われていた。
神経質な美佐江は、非難の眼差しで店員を探した。
二十人も入れば満員の小さな店で、テーブルが五つ。
満席で、店内全体を白い煙がもうもうと覆っていた。
煙を透かして奥を覗くと、明らかに韓国系らしき顔付ぎの中年男が厨房からカウンターに身を乗り出して、熱心に棚の上のテレビを見つめていた。
女店員も、カウンターに寄りかかってぽんやりテレビを眺めている。
百七十センチはありそうな、体の大きな女だった。
二人が見ているのは、NHKの七時のニュースらしい。
そんなもの見る暇があったら、メニューを綺麗に拭いて注文取りにいらっしゃいよ、と文句を言いたいところだったが、鼻ぺちゃが目立つ女の横顔に何となく見覚えがあって、美佐江は必死に考え始めた。

 

(本文P. 7〜11より引用)



▼この本の感想はこちらへどうぞ。 <BLANKでご覧になれます

e-honからご注文 画像
BOOKSルーエ TOPへリンク


このページの画像、引用は出版社、または著者のご了解を得ています.

当サイトが引用している著作物に対する著作権は、その製(創)作者・出版社に帰属します。
無断でコピー、転写、リンク等、一切をお断りします。

Copyright (C) 2001 books ruhe. All rights reserved.