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 降臨の群れ
著者
船戸与一/著
出版社
集英社
定価
税込価格 1995円
第一刷発行
2004/06
e-honからご注文 降臨の群れ 船戸与一/著 集英社
ISBN 4-08-774691-7
 
神の数だけ、立場の数だけ、正義はある!
 
降臨の群れ 船戸与一/著 集英社

本の要約 降臨の群れ 船戸与一/著 集英社

インドネシアのアンボン島。イスラム教徒とキリスト教徒が血で血を洗う戦闘を繰り広げる地で、暗躍するアル・カイダ、プロテスタント過激派、鍵を握る日本人商社マン。渾身の長編冒険小説1300枚!



降臨の群れ 船戸与一/著 集英社 オススメな本 内容抜粋

ひとまずの序
満ち潮に膨らんだ死体が次々とマタラムの浜辺に打ちあげられて来る。
ゆらりゆらりと漂って来て、浅瀬に留まるのだ。
男もいれば女もいた。老人や子供も混じっている。
昨夜のすさまじい風雨はいまはぴたりと熔んでいた。
静寂のなかの色彩のない光景。
夜は完全に明けたわけじゃない。
その朝まだきのなかでマタラム市警と救急センターの連中が漂着して来る屍を収容していた。
動きは緩慢だった。
溺死体を見るのは不快なものだ。
腹が膨れ、鼻から口にかけて微細泡沫塊というやつが茸のように盛りあがっている。
解剖すれば肺やら肝臓やらにプランクトンがへばりついているだろう。
笹沢浩平はマタラムの浜辺に集まった群衆のなかに混じってこの光景を眺めていた。
アシスタントのアリ.ウディンが大量の死体が流れ着いていると電話で報らせて来たのは午前四時過ぎだ。
観ようと答えた。
スルタン.カールディン通りの自宅を出てキジャンを転がし、ダサナグン地区のウディンを拾ってここに来た。
キジャンはトヨタの現地法人が製造する一見四輪駆動に似た形状の一三〇〇tの車輌で、インドネシア以外の国では見たことがない。
この浜辺に着いたときはすでに死体の収容がはじまっていた。
これまで三十体以上がトラックで運び去られていったろう。
浩平は煙草を取りだして火を点けた。
「アラブ系なんですかねえ、死体は?」ウディンのインドネシア語が傍らで響いた。
二十九歳になるこの若者はここロンボク島に来て傭い入れた。
浩平がインドネシア に長期滞在するようになってからもう三十年近くが経つ。
だから、インドネシア語そのものにはほとんど不自由しない。
しかし、ロンボク島ではササック語しか喋れない老人もいるのだ。
どうしても通訳を兼ねたアシスタントが必要だった。
ウディンがじぶんの発問を肯定するようにつづけた。
「アラブ系ですよ、顔つきからしてきっと……」
「わからないよ、わたしには」
「今年にはいって三度目ですよ、もう」
浩平は無言のまま煙草を喫いつづけた。
インドネシアにはいまアサイラム・シ!カーたちが次々と押し寄せて来ている。
出身国のほとんどはイラクやイラン、アフガニスタンなどのイスラム諸国だった。
アサイラムとは救護施設や避難所を意味する英語で、もともとは平穏を表わすシャロームというヘブライ語から発したらしい。
それが転じてアサイラム・シーカーは政治亡命者を指すようになった。
イスラム諸国から来るそういう連中が
インドネシアを経由して向かいたがる亡命地は決まってオーストラリアだった。
広大な土地と少ない人口。
アサイラム・シーカーたちにはそこが永遠の安息の地と見えるらしい。
それがいま国際問題と化している。
オーストラリアが亡命を拒否しはじめたのだ。
この対応にインドネシア政府は苛立ちを隠そうとしていない。
アサイラム・シーカーは偽造旅券を手にしていったんマレーシアに渡る。
そこから小舟でスマトラに密航し、そのままジャワにはいり込んで来るのだ。
インドネシアはこの群れを引き取れとオーストラリアに要求する。
オーストラリアは拒否をつづける。それが東ティモール独立後のイリアン・ジャヤ情勢と絡まって政治問題化しているのだ。
そういう緊張のなかでもアサイラム・シーカーたちは増加の一途を辿った。
それはそのまま密航斡旋業者たちの跳梁へと繋がっていった。
アサイラム・シーカーは多額の金銭を支払って密かにオーストラリアに運んでくれる船を捜す。
この結果、定員数の十倍近い人間が船に積み込まれ、その重さに耐えかねて沈没するケースが増えて来た。
先月のはじめに沈んだ定員数三十名の船には四百三人のアサイラム・シーカーが乗り込んでいた。
「何人ぐらい乗り込んでたんですかねえ、今度は?」ウディンが低い声で言った。
「生存者はいるんですかね?」浩平は無言のまま煙草のけむりを大きく吸い込んだ。
そのときあたりが急に明るくなった。
朝陽があがったのだ。
すべての色彩が艶々と映え渡った。
群青色の海。
白く小さな波頭の泡立ち。オランダ植民地時代に作られ、いまは廃棄されている黒ずんだコンクリートの突堤。
黄褐色の砂の拡がり。そして、溺死体が纏っている真っ赤なTシャツ。
何もかもが眩しかった。
「引きあげよう、ウディン」浩平はそう言って街えていた煙草を吐き棄てた。
「もう生々し過ぎる、死体が」
だが、ウディンは何も言わず西に向かってわずかに体を強ばらせた。
まわりの群衆たちも同じだった。
その上半身がゆっくりと折り曲げられた。朝の礼拝アザーンがはじまったのだ。
アンペナン地区のモスクの尖塔の拡声器からコーランの一節が流れだした。
浩平はイスラム教についてとくに詳しいわけではない。コーランや教義に関する書物を読んだこともなかった。
しかし、インドネシアに来てからもう長い。
体系的な知識はなかったが、
その周辺のことについては何となく耳にはいって来る。
イスラム教徒は一日五回聖地メッカに向かって礼拝をしなければならない。それは五行のひとつだった。
ウディンたちの手が両耳に宛がわれた。
コーランが流れる。
アッラーは偉大なり。
アッラー以外に神はなし。
ムハンマドはアッラーの使徒なり。
礼拝のために来たれ。
礼拝は眠りよりよし。
直立礼から屈折礼へ、平伏礼から座礼へとコーランに合わせて口々にその一節を唱えながらそれが変わっていく。
浩平は黙ってこの光景を眺めつづけた。
朝の礼拝が終わった。ウディンが立ちあがって言った。
「引きあげましょうか」
浩平は頷いてふたりで群衆のあいだを擦り抜けながら浜辺からパタベアン通りに向かった。そこにキジャンを駐めてある。
この一帯はアラブ人街だった。
八十年以上もまえオスマン・トルコ帝国の崩壊とともに主としてイエーメンからやって来た連中が住みついている。
スラウェッシ島のマカッサルを経由してこのロンボク島に落ち着いたのだ。半分はササック人と混血したが、残りはまだ純血のままだった。
だから、昼間は串刺し羊肉を焼く匂いが立ち込める。
ふたりでキジャンに乗り込み、エンジンを始動させた。

 

(本文P. 11〜13より引用)


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