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 雨の日のイルカたちは
著者
片山恭一/著
出版社
文芸春秋
定価
税込価格 1300円
第一刷発行
2004/04
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ISBN 4-16-322880-2
 
メガ・ヒット作家が問いかける“9・11後の世界と私”。9・11事件を境にわれわれは信じられるものを失った−−。現代人の寄る辺なき喪失感と再生に向けた歩みを誠実な筆致で描く作品集。
 

本の要約

信じられるものを失ってしまった心。私たちに再生の途はあるのだろうか。突然死した最愛の夫には別に愛する人がいた―。深い喪失感を抱えて生きる人たちを祈りにも似た言葉で描く四篇の物語。



オススメな本 内容抜粋

彼女は子どものころに母親から虐待されていた。
なんの理由もなしにぶたれる。
些細なことを口実に折濫を受ける。
家のなかでは、いつもおどおどしていた。
母親の態度の急変に備えて、絶えず周囲の空気に神経を張り詰めていた。
生ぎていくのがいやで、中学生のころ、手首を剃刀で傷つけたことがある。
深く切ることはできなかった。
傷口にバンドエイドを貼り付け、枕を噛みしめたまま、声を押し殺して泣いた。
そんな少女時代を過ごしてぎたために、結婚してからもしばらくは子どもをつくる決心がつかなかった。
自分も母親と同じように、わが子を虐待してしまうのではないか。
そのことが不安だったし、怖かった。
子どもは嫌いではない。
友だちに赤ん坊が生れると、真っ先に駆けつけて抱かせてもらった。
そうしながらも、自分のなかに母親と同じ衝動が萌してこないか、厳密にチェックしていた。
その話を彼が聞かされたのは、妊娠が明らかになってまもなくのころだった。
夜中にベッドで泣いている妻に、理由をたずねた。
最初のうちは「なんでもない」と言って、本当のことを話そうとしなかった。
気持ちが不安定になっているのだろう、とおさまりをつけて、彼も深くは追及しなかった。
同じようなことが何度か繰り返されたあとで、とうとう彼女は母親のことを打ち明けた。
あのときどうやって妻を宥めたのか、彼はもうはっぎりとはおぽえていなかった。
お義母さんときみは別の人間だからとか、自分が虐待を受けたからこそ、なおさら子どもを可愛がるはずじゃないかとか、そんな常識的な気休めでも口にしたのだろう。
いまのところ、心配は杞憂に終わりそうだった。
むしろ母子の過剰とも言える親密さを目の当たりにするにつけ、彼は自分だけ疎外されているような寂しさを感じることもあった。
その妻は、蒼ざめた顔で目を閉じている。
胸には生れて四ヵ月になる赤ん坊が、しっかりと抱かれている。
「もうすぐ着くよ」
彼が声をかけると、夫人はかすかに口元をゆがめて頷いた。
不完全燃焼の油と煙草の煙が入り混じったような船室の臭い、絶えず座席を伝わってくる小刻みな振動、すれ違う船の波を乗り越えるときの大きな上下の揺れなどが、もともと船の苦手な彼女にストレスをかけて
いた。
「帰りは電車にするから」そう言って、彼は船窓の外に広がる海に目をやった。
海浜のタワーやドームが遠くに霞んで見えた。
船尾の方では、茶色く濁った海水がスクリューによって白く泡立っている。
正面の窓からは、目的地である岬が間近に見えていた。
正確には、それは岬と言うよりも、湾を包み込むようにして細長く延びる砂洲だった。
砂浜の先端は、多くの史跡が眠る島にたどり着く寸前で海に途絶えている。
島とのあいだには、短いコンクリートの橋が架かっている。
島には集落があり、果樹園と漁港がある。
しかし砂洲には、松林の他は、ただ砂の丘陵がつづいているばかりだった。
かつては軍用の飛行場があったというが、いまは取り壊されて公園やグラウンドになっている。再開発された一帯に、湾に面して水族館とリゾートホテルが建っている。
子どもの誕生が近づくにつれて、彼には自分たち夫婦のあいだが疎遠になっていくように感じられた。
目に見える変化が起こったわけではない。
彼は妊娠中の妻の精神を安定した状態に保つために、仕事のことで愚痴をこぽしたり、人の悪口を言ったり、世の中にたいする悲観的な見方を口にしたりすることを控えた。
また夫婦のあいだの些細な言い争いを避けるように心がけた。
それらが胎児の耳に届いて、発育に悪影響を与える気がしたからだ。
胎生数ヵ月目にして赤ん坊が積極的な精神活動を営んでいるという説を、彼は漠然と信じていた。
結果的に、妻とのあいだには一定の距離が生じた。
彼女の方は、ときおり胎児のことなどを口にするものの、一日の大半、意識を暗い腹腔へ向けながら、胎児と二人きりの時間を過ごしているようだった。あるとき彼は妻の腹に手を置いて、臨月までの日数をかぞえてみた。
すると彼女は、「名前を考えたの」と言って、男の子の名前ばかりを幾つかあげた。
「女の子かもしれないじゃないか」
「そんな感じがしないのよ」確信ありげに言った。
「わかるの」
たしかに赤ん坊は男の子だったが・・・o
小さな港に船が着き、埠頭に降り立ったとき、彼は光の色が微妙に変化していることに気づいた。
遠くのさざ波に反射してきらめく太陽の光は、夏が終わり、季節が確実に移ろいつつあることを示している。
それは光の相のもとに見られる事物が、一年のうちでいちばん美しく感じられる季節だった。
港からホテルまでは、歩いて五分とかからない。彼がチェックインをしているあいだに、夫人は船のなかで眠ってしまった赤ん坊をソファに横たえて化粧室に入った。
シーズンを過ぎたホテルは客の姿がまばらで、しかも今日は火曜日だ。
フロントでキーを受け取ってから、赤ん坊が眠っているソファの近くで、立ったまま妻を待った。サロンの窓からは海が見えた。
少し灰色がかった青には、長い夏が終わった安らぎが感じられる。
人が去ったあとの静かな海が、彼は好きだった。
「お待たせ」

 

(本文P. 6〜9より引用)


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