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 ミルキー
著者
林 真理子 著
出版社
講談社
定価
本体価格 1400円+税
第一刷発行
2004/01
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ISBN 4-06-212259-6
 
子を産んだ女ほど、いやらしいものはない。
 

本の要約

みんな普通の人だから、愛はこんなに奥深い。手に入らない女は美しい。別れたいときの女は恐ろしく、別れられないときには、女はずるい。普通の男女の愛とセックスの深さと不思議を描いた、著者久々の短編集。



オススメな本 内容抜粋

実は先週、見合いをしたのだと陽一は美枝子に告げた。
「どういう娘だったの」
「別に、普通の女の子だったよ。いかにも見合いで結婚しそうなタイプだよ」
つまらなそうな口調になるのは、自分が選ぶ側に立っているものと信じているからである。
陽一は今年三十五歳になる。
美枝子に見合い市場のことはよくわからぬが、女から見てそう歓迎される年でもあるまい。
若い女だったら釣書を見て「おじさんじゃない」というひと言を口にしそうだ。
けれども陽一がこれだけ強気でいられるのは、ひとえに公認会計士という肩書を持っているせいだ。
司法試験に次いでむずかしいと言われるこの資格を、彼は二十代前半で取得している。彼の父親も同じ職業に就き、陽一はそこの事務所に籍を置く身だ。
父親は古くから麹町に事務所を構え、手堅い得意先を幾つも持っているらしい。
この不景気に陽一から愚痴ひとつ聞いたことはなかった。
こうした好条件に加え、陽一は長男であるからその行末を周囲が案じるのは当然の話で、実 は一年ほど前から彼が見合いを繰り返しているのを美枝子は知っている。
が、そのことをはっきり口にしたのは最近のことだ。
なめられているのか、それともこちらを嫉妬させようとしているのかと、美枝子はとっさに判断をつけかねているのであるが、男と女が五年もつき合っていれば馴れ合いと甘えとが一緒くたになり、思わぬ真実を露呈するのはよくあることだ。
お互いに隠し立てすることがなくなり、身も心もつくろわなくなってくる。こうなってくると別れは近い。
七歳年上の美枝子はそこまで予感出来る。
「顔は可愛いの。いったい幾つぐらいなの」
恋人の見合い相手に対して、あれこれ質問するのは決して自虐的になっているからでもなく、自分の心がどこまで耐えられるか試そうとしているのでもない。
単純に陽一の反応が見たいのだ。
こういう時に彼がどういう表現を口にするのか、心のどこかで面白がっているところがある。
「年は二十七歳っていってたかな。本当にチマチマっとした顔つきの、おとなしそうな感じの娘だよ。ちょっと勤めたことがあるそうだけど、今は家にいて父親の病院の事務をしてるそうだ」
だけどね、と陽一はごくさりげなくつけ加えた。
「大学は─を出ているんだ」
名前を言えば誰でも知っている私立の名門である。
美枝子は思わず微笑した。
公認会計士で世間からはエリートと呼ばれる陽一の、秘かな学歴コンプレックスを美枝子はよく知っているからである。
陽一も六大学のひとつを卒業しているのであるが、それは二部と呼ばれる夜間である。
受験を二年続けて失敗した後、彼の父親は言ったらしい。
だったら二部でもいいではないか。
二部を卒業したことなど、自分さえ言わなければ済むことだ。
人は大学の名を聞いても、昼間か夜間かなどということは意識の外にある。
むしろ公認会計士になるという目的があるのならば夜間の方が都合がいい。
昼間を勉強のためにあてることが出来るではないか………。
陽一は父親の言うとおり、昼間は公認会計士になるための専門学校に通い、夜は学歴をつけるために大学へ通った。
その甲斐あって卒業後すぐに資格を得ることが出来たのであるが、彼の心の中にはさまざまな感情が生まれ、それが幾つかの屈折した好みをつくった。
そのひとつが自分なのではないかと美枝子は思うことがある。
陽一と出会った頃、美枝子は三十七歳であった。
離婚歴のあるこの年代の女に近づいてくる男といえば、およそタイプが決まっている。
後腐れのない情事を楽しめると信じている妻子持ちの男か、そうでなかったら自分の女のコレクションに何でも入れたがる、遊び慣れた独身の男である。
が、陽一はそのどちらでもなかった。
無器用なやり方で、普通の男が普通の女に近づくように、まっすぐにやってきた。
それが美枝子には新鮮だった。
化粧品会社の広報室に勤める美枝子は、年よりもはるかに若く見える。
陽一は知り合った頃、美枝子のことを、自分よりせいぜいひとつ、ふたつ年上と踏んでいたらしい。
「あら、ありがとう。でもね、あなたよりも七つも上なのよ」
と美枝子がはっきり口にした時、陽一は“やはり”といった表情で目を伏せた。
彼はその頃から本当に正直な男であった。
そして正直な男にありがちなことであるが、それが相手の女をどれほど傷つけるかということについて配慮がいかない。
「君とは結婚出来ないかもしれない」
やがて彼は苦渋に充ちた表情でこう言ったものだ。
「僕は長男だし、うちを継がなきゃいけないんだ。そういう責任がある……だから」
もうじき四十に手が届こうとしている、結婚に失敗している女とは結婚出来ないのだという言葉はさすがに呑み込んだが、怯えたような目がすべてを語っていた。
それは今まで美枝子とつき合った男たちの言いわけとは別のものだ。
「あのさ、僕は家庭を壊す気はないからさ……」
「君には悪いけど、僕は二度と結婚する気ないから一応言っとくよ」
彼らは一応つらそうに振るまってはみるものの、
「最初にここまでちゃんと言ったんだから、後で文句は言わないでくれよ」
という狡猾さが、言葉の端々からにじみ出てくる。
けれどもこれは男と女が交す契約のようなもので、慣れてしまえばどうということはない。若い時ならいざ知らず、三十代後半の女で、怒る女はいないだろう。
けれども陽一の場合は、釈明でも契約でもなく、謝罪してくるではないか。
「君とのことをいいかげんに考えたことはない。だけどね、本当に結婚出来ないんだ。申しわけないけれども、僕は子どもの頃からそういう風に育てられてしまったんだ」
「そういう風って、どういうこと」
美枝子が質問すると、陽一はうっかりと口を滑らせる。
「だから長男としてちゃんとした結婚をしてくれ、親を悲しませるような結婚はしないでくれっていうことなんだ」
ふうーん、じゃあ私はちゃんとした女でもなくて、親を悲しませる女なんだねと美枝子が言うとそれきり陽一は黙る。
やがて、
「うちは大したうちじゃないけど、やっぱり後継ぎは必要なんだよ。ちゃんと孫をつくらなきゃいけないんだよ」
とわけのわからぬことを言い出した。
つまり美枝子の年齢では子どもは産めないのではないかということなのである。
そのくせセックスの最中、避妊を忘れたことがないから笑ってしまう。
「あのね、正直っていうことと、誠実っていうこととはまるで違うのよ」
美枝子は一度言ったことがあるが、まるで意味がわからなかったらしい。

(本文P. 7〜11より引用)


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