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 夜盗
著者
なかにし礼/著
出版社
新潮社
定価
本体価格 1400円+税
第一刷発行
2003/12
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ISBN 4-10-445105-3
 
大人のための恋愛小説。 私を抱いて。私を浄めて。
 

本の要約

今は何も訊かないで。私の秘密と一緒に、私を抱いて――不幸な過去を負いながら懸命に生きる女と、老刑事の運命が交差した時、全ての罪は解(ほど)け始める。



オススメな本 内容抜粋

電話の音で、柏田は目が覚めた。
「呼び出しか」
一言つぶやいて手をのばした。暗がりをまさぐって受話器を取り上げ、
「はい。柏田です」
「班長ですか」
巡査部長の植木の声だ。
「なにかあったの?」
植木は、さしたる緊張感もない声で、
「はい。窃盗事件がありました」
「ノビか」
「そうです」
「当直で対応できないの」
気持良く寝ていたところを起こされたからだろう、柏田の物言いにはちょっとぼやきのニュアンスがあった。
窃盗にも色々と種類があるが、警察では屋外盗と屋内盗の二つに分けている。
屋外盗とは、スリ、ひったくり、車上荒らし、自販機荒らし、万引き、置引きの類いであり、屋内盗とは、空き巣や、昼間、人が居るところへ侵入して泥棒を働く居空き、事務所荒らし、夜、無人になった商店から金品を盗む出店荒らし、夜中に、人が寝ているところへ忍び込んで盗みを働く忍び込みの類いである。
この忍び込みを刑事の隠語でノビという。殺人事件や強盗ならともかく、ノビぐらいなら、通常は当直の刑事と交番の巡査が現場に駆け付けて対応する。
柏田のぼやきにはそういう理由があった。
「被害者が外人なものですから」
「ふーん、外人宅か」
「英語ができるのは班長しかいませんので」
「俺の英語ったって、たいしたことないよ」
「でも……、自分らは全然駄目なもんで」
「現場は?」
「ハイランドです」
「どこの家?」
「久木八丁目の角のアメリカ人の家」
「わかった。で、植木巡査部長、あんたは今」
「署です」
「で、俺は、どっちへ出勤したらいいんだ?署か、現場か」
「現場へ直行してください」
「ああ。分かった」
「鑑識への連絡はどうしましょうか」
「わざわざ夜中に起こすまでもないだろう。あんたがやってくれ」
「じゃ、現場でお待ちしてます」
「ああ」
受話器をおいて柏田は、枕元のスタンドをつけた。細めた目で時計を見やると四時だった。
(仕事だ。文句を言ってはいけない)
そう自分に言い聞かせ、布団をはねあげた。
起き上がって歩きだすと、膝ががくっとした。近頃こういうことがよくある。
(俺もだいぶガタが来たな)
柏田の胸を一瞬寂しいものがよぎった。
水でさっと顔を洗った。
鏡の中の自分の顔を見た。
柏田源吉、逗葉警察署刑事課、強行盗犯係の刑事である。階級は警部補、五十九歳、来年の一月には六十歳の誕生日を迎え、年度末の三月いっぱいで定年だ。髪は薄くなりかけているが、肌にはまだ引退させるには惜しいような若さが残っていた。
白髪まじりの髭が少しのびていたが、車の中で剃ろうと決めた。
洗いざらしの白い下着をつける。これは、いつなにがあるか分からない刑事の心得の一つだ。
ブルーのワイシャツに紺のネクタイをしめた。もう何百回も袖を通して、すっかり身体になじんだ紺色の背広を、洋服箪笥のハンガーからむしりとって手早く着た。箪笥の一番上の引き出しの奥のほうから警察手帳を取り出してズボンの左うしろのポケットに入れ、手帳の革ケースについている紐をズボンのベルトにつないだ。
二つ折りの財布をズボンの右うしろのポケットヘ、ハンカチをズボンの左ポケットヘ。三十年以上も繰り返してきた身支度の基本である。最
近はこれに携帯電話が加わった。こいつはケースに入れてベルトの右側に装着する。捜査録と手袋は手カバンに入っている。その手カバンに電気カミソリをつっこんで、柏田は家を出た。
うっすらと白みはじめた六月の空を背に、家々はうずくまるようにして眠っている。
始発電車が出るにはまだ早い。
柏田は、家の玄関脇に停めてある自分の車に乗り込みエンジンをかけた。
その音に驚いてか、野良猫が一匹車の下から飛び出し、足音もなく道を渡っていった。
「呼び出しをくらうのも久しぶりだなあ」
柏田はひとりごちた。
最後はいつだったか、思い出そうとしてもなかなか記憶の筋道がつながらなかった。
(ボケてきたのかな)
柏田はぶるっと頭を左右に振って眠気を払った。
湘南の逗葉地区は事件が少ない。刑法犯と呼ばれる事件は神奈川県下五十三署ちゅう、下からかぞえて四番目くらい、年間一千件あるかないかだ。十万件もあろうかという相模原地区などに比べたら月とスッポンだ。
(逗葉署は暇だからな。それでなおのことボケが進むんだ)
信号で停止するたびに、電気カミソリで髭をあたった。
衣笠インターから横浜横須賀道路に乗り、朝比奈で降りた。
鎌倉霊園を左右に見ながら七曲りの山道を越える。
ハイランドは、湘南でも名高い高級住宅地である。
テレビでよく知られたタレントや、有名企業に勤めて成功した人たちが住んでいる。
(あのへんはノビに狙われるなあ)
ハンドルを切りながら柏田は考えた。
泥棒が嫌うのは、光と音である。
ハイランドは街灯が惜しげもなくついていて町並みが明るい。
たいていの家は警備会社と契約しているから、なにかあるとすぐ警報が鳴る。
犬を飼っている家も多い。となると、泥棒ならむしろ避けて通りたいところだろうに、なぜか狙われる。
逗葉地区で起きる年問二十件の窃盗事件のうち約半数近くがハイランドだ。
駅からさほど遠くないという泥棒にとっての地の利もあるだろう。新興住宅地であるから近所付き合いが少なく、一軒一軒の家が大きい。
(なんといっても金のありそうな家がならんでいるからなあ)
柏田には泥棒の気持がなんとなく分かる気がした。
夜明け前の道路はがら空きで、電話で起こされてからハイランドに着くまで三十分とかからなかった。
久木八丁目の現場には、車が二台停まっていた。
一台はグレイのライトバンで、これは鑑識車輌、もう一台は逗子駅前交番のミニパトカーだ。
手カバンから捜査録を取り出して胸ポケットに入れ、白い手袋をズボンのポケットにねじこみながら車から出た。
門の前に、今夜の当直である巡査部長の植木が、申し訳なさそうな顔をして立っていた。

(本文P.3〜7 より引用)


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