プロローグ
照明が半分落とされた薄暗いプールに、白い軌跡ができていた。
軌跡を作りだしているものは、踊るように水を駆ける唐獅子だ。
いや、よく見るとそれは男の背に刻まれた刺青であることに気づく。
唐獅子のまわりには二輪の真っ赤な牡丹の花。
男はただ黙々と泳いでいる。伸ばした腕が何かを求め、何かを欲しているかのように水を掴む。
腕の付け根の僧帽筋は熱を持って盛り上がり、上腕三頭筋から手首までのライソは、しなる鞭のような動きを見せている。
水を蹴る足は、モーターボートのスクリューのような流れを作りだしていた。
男は100メートルを泳ぎきると、即座に壁の競技用デジタル時計に目をやった。
示された数字からスタート時の時間を引いてタイムを算出すると、深い落胆のため息を漏らした。
想定したタイムにははるかに及ばなかったのだ。
突然プールサイドに人の気配がして、男は慌てて肩まで水に浸かった。
まだ入って間もない若い女性従業員が、モップを持って走って行く。
この時間は立入禁止という専務からの指示が徹底されていないらしい。
その従業員は男と目が合うと、ペコリと頭を下げて通り過ぎて行った。
おおかた金持ちが、金にものを言わせてプールを貸し切りにしている。その程度の認識しか従業員にはないはずだ。
それが男にとっては好都合だった。
男は昔から、努力している姿を人に見られるのが嫌いだったのだ。
一人きりになったプールで、男は再びタイムアタックを始めた。
片面ガラス窓の向こうには、白く冴え冴えとした満月が浮かんでいる。
その月の光を浴び、口を開けて赤い舌をのぞかせた唐獅子が、水の上を跳ねるように疾駆して行った。
男の頭の中に想定されたタイムは50秒45。
それは現在の100メートル自由形の日本記録だった。
二十八歳という年齢が、記録に挑む資格として相応しいかどうかはわからない。
おそらく水泳関係者たらこう言うだろう。
ピークは過ぎた、と。
しかし男は決して自分の肉体が衰えたとは思っていなかった。
だからこそ挑み続けている。
そして誰もいないこの夜のプールで、いつの日か記録を破る日を夢見ていた。
1章
1
美咲は聡明な子であった。
だから自分の家がチエちゃんやショゥタくんの家とはどこかしら違うことに、齢五歳の幼稚園児でありながら気づきだしていた。
パパの裕次郎は二十八歳の若さで会杜の杜長である。
今風にいえばバリバリの青年実業家であり、細面の甘いジャニーズ系のマスクは年齢をさらに若く感じさせた。運動会のおんぶレースでは、よそのお母さんたちが桃色のため息をついて見つめているのを背中で感じ取れたほどだ。
つまり美咲にとって裕次郎は、とりあえず自慢のパパなのである。
ママの恭子は、裕次郎よりも二つ年上の三十歳だが、すでに大学の助教授である。
テレピの化粧品のコマーシャルに出てくる宝塚出身の女優さんによく似ていると、美咲はかねてより思っていた。
女優に似ているということは美人ということなのだと、最近わかりかけてきた世の中の美的基準に照らし合わせて理解するようになった。
ワンレングスの髪を掻き上げ、専門書を調べている時の姿に美咲は素直に憧れていた。
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