著者渾身のライフワーク巨編、第3弾!日米開戦。敵同士となった北都昭平とヴァジニアの前に、一人の日系女性が現れる。幻惑される北都。嫉妬に狂うヴァジニア。二人の絶望的な愛の行方は・・・。
一九四一年十二月エル・パルド宮(マドリード)
十二月十二日、金曜日、午後四時。
ビセンテ・バリオスは、いらいらして警笛を鳴らした。 前を走る車は、そんな音など耳にもはいらぬといった様子で、まったく速度を上げようとしない。 傷だらけの、黒い小型のセダンだ。砂煙を上げながら、のんびり走っている。街道の左右に建物はなく、荒れた田野が果てしもなく広がる。 ビセンテは方向指示器を出し、ぐいとバンのアクセルを踏み込んだ。 ハンドルを切り、反対車線に乗り出す。 そのとたん、前のセダンは急に思いついたように速度を上げて、バンの追い越しを阻止した。 対向車が近づくのが見えたので、ビセンテはしぶしぶもとの車線にもどった。 「くそ、根性の悪い野郎だ」 この車に、追い越しの邪魔をされるのは、これで三度目だ。 いつもなら、マンサナレス川の右岸沿いにエル・パルド街道を北上するのだが、この日に限って左岸のサルスエラ街道に道筋を変えた。 五日前の日曜日、真珠湾奇襲で火ぶたを切った日米開戦を受けて、昨日ドイツがアメリカに宣戦布告したため、政府の動きがあわただしくなった。 この日、フランコ総統の政庁がおかれたエル・パルド宮には、連合国側と枢軸国側の外交使節がそれぞれの立場を説明するため、いっせいに詰めかけるという噂が街に流れた。 そうなった場合、主要道路のエル・パルド街道は交通規制や警備のために、混雑渋滞が予想される。 それを見込んで、ビセンテはわざわざエル・パルド街道を避け、川向こうのサルスエラ街道を選んだのだ。 裏道とはいえ、主要道路の影響でいくらかは混雑するもの、と覚悟していた。 しかし実際に走ってみると、道は拍子抜けするほどがらがらだった。 ただ、前を走るのろのろ運転のセダンだけは、計算に入れてなかった。 これでは、回り道をした意味がない。 セダンの前方は空いていて、ほかの車ははるか先を走っている。 のんびり走る理由は、何もないのだ。 バンに対するいやがらせ、としか思えない。 ビセンテは、警笛を立て続けに鳴らして、進路をあけさせようとした。 すると、どうしたことかセダンは突然速度を緩めて、道端に寄りもせずそのまま停車した。 もう少しで追突しそうになり、ビセンテはあわててブレーキを踏んだ。 道のど真ん中で停車するとは、いったいどういうつもりだ。 セダンの助手席から、男が一人おりて来る。 三十歳かそこらの、こけた頬に黒い髭を生やした、目つきの鋭い男だ。 医師か保健所員のような、 上下そろいの白衣を身につけている。 ビセンテは、文句の一つも言ってやろうと思い、運転席の窓をおろした。 しかし男はそれを無視して、助手席の側に近づいた。 ビセンテは腕を伸ばし、ハンドルを回して助手席の窓をおろした。 「おい、どういうつもりだ。邪魔ばかりしやがって、この」 そこまで言って、言葉をのむ。 白衣の男は、窓から手を入れてロックをはずし、ドアを勝手にあけた。 ものも言わずに乗り込んで来ると、ビセンテを睨みながらドアを乱暴に閉める。 その右手には、拳銃が握られていた。 「前の車のあとについて行け」 ビセンテはあっけにとられ、男と銃口を交互に見た。 わけが分からぬまま、ようやく言葉を絞り出す。 「妙なまねはよせ。このバンは、銀行の現金輸送車じゃないんだ。ただの、洗濯物運搬車だぞ。ボディに、そう書いてあるだろう」 「そんなことは、分かってる。さっさと、言われたとおりにしろ」 急には事態がのみ込めず、ビセンテはとまどった。 「聞こえないのか。早く車を出せ」 気がつくと、小型セダンが動き出している。 ビセンテは、しかたなくそのあとについて、車を発進させた。 セダンが追い越しの邪魔をしたのは、何か目的があってのことらしい。
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