燃える蜃気楼
著者
逢坂剛/著
出版社
講談社
定価
本体価格 2300円+税
第一刷発行
2003/10
ISBN 4-06-211990-0
 
独ソ開戦以降、混迷の度合いを深める第二次大戦下のヨーロッパ。フランコ政権下のスペインは、枢軸側と連合国側の間を揺れ動く。焦点は連合国の北アフリカ上陸作戦。時期は、そして場所は?裏の裏、そのまた裏をかくスパイたちの死闘は白熱する。
 

著者渾身のライフワーク巨編、第3弾!日米開戦。敵同士となった北都昭平とヴァジニアの前に、一人の日系女性が現れる。幻惑される北都。嫉妬に狂うヴァジニア。二人の絶望的な愛の行方は・・・。



プロローグ

一九四一年十二月エル・パルド宮(マドリード)

十二月十二日、金曜日、午後四時。

ビセンテ・バリオスは、いらいらして警笛を鳴らした。
前を走る車は、そんな音など耳にもはいらぬといった様子で、まったく速度を上げようとしない。
傷だらけの、黒い小型のセダンだ。砂煙を上げながら、のんびり走っている。街道の左右に建物はなく、荒れた田野が果てしもなく広がる。
ビセンテは方向指示器を出し、ぐいとバンのアクセルを踏み込んだ。
ハンドルを切り、反対車線に乗り出す。
そのとたん、前のセダンは急に思いついたように速度を上げて、バンの追い越しを阻止した。
対向車が近づくのが見えたので、ビセンテはしぶしぶもとの車線にもどった。
「くそ、根性の悪い野郎だ」
この車に、追い越しの邪魔をされるのは、これで三度目だ。
いつもなら、マンサナレス川の右岸沿いにエル・パルド街道を北上するのだが、この日に限って左岸のサルスエラ街道に道筋を変えた。
五日前の日曜日、真珠湾奇襲で火ぶたを切った日米開戦を受けて、昨日ドイツがアメリカに宣戦布告したため、政府の動きがあわただしくなった。
この日、フランコ総統の政庁がおかれたエル・パルド宮には、連合国側と枢軸国側の外交使節がそれぞれの立場を説明するため、いっせいに詰めかけるという噂が街に流れた。
そうなった場合、主要道路のエル・パルド街道は交通規制や警備のために、混雑渋滞が予想される。
それを見込んで、ビセンテはわざわざエル・パルド街道を避け、川向こうのサルスエラ街道を選んだのだ。
裏道とはいえ、主要道路の影響でいくらかは混雑するもの、と覚悟していた。
しかし実際に走ってみると、道は拍子抜けするほどがらがらだった。
ただ、前を走るのろのろ運転のセダンだけは、計算に入れてなかった。
これでは、回り道をした意味がない。
セダンの前方は空いていて、ほかの車ははるか先を走っている。
のんびり走る理由は、何もないのだ。
バンに対するいやがらせ、としか思えない。
ビセンテは、警笛を立て続けに鳴らして、進路をあけさせようとした。
すると、どうしたことかセダンは突然速度を緩めて、道端に寄りもせずそのまま停車した。
もう少しで追突しそうになり、ビセンテはあわててブレーキを踏んだ。
道のど真ん中で停車するとは、いったいどういうつもりだ。
セダンの助手席から、男が一人おりて来る。
三十歳かそこらの、こけた頬に黒い髭を生やした、目つきの鋭い男だ。
医師か保健所員のような、
上下そろいの白衣を身につけている。
ビセンテは、文句の一つも言ってやろうと思い、運転席の窓をおろした。
しかし男はそれを無視して、助手席の側に近づいた。
ビセンテは腕を伸ばし、ハンドルを回して助手席の窓をおろした。
「おい、どういうつもりだ。邪魔ばかりしやがって、この」
そこまで言って、言葉をのむ。
白衣の男は、窓から手を入れてロックをはずし、ドアを勝手にあけた。
ものも言わずに乗り込んで来ると、ビセンテを睨みながらドアを乱暴に閉める。
その右手には、拳銃が握られていた。
「前の車のあとについて行け」
ビセンテはあっけにとられ、男と銃口を交互に見た。
わけが分からぬまま、ようやく言葉を絞り出す。
「妙なまねはよせ。このバンは、銀行の現金輸送車じゃないんだ。ただの、洗濯物運搬車だぞ。ボディに、そう書いてあるだろう」
「そんなことは、分かってる。さっさと、言われたとおりにしろ」
急には事態がのみ込めず、ビセンテはとまどった。
「聞こえないのか。早く車を出せ」
気がつくと、小型セダンが動き出している。
ビセンテは、しかたなくそのあとについて、車を発進させた。
セダンが追い越しの邪魔をしたのは、何か目的があってのことらしい。

(本文P.7〜9 より引用)


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