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 いまこの瞬間愛しているということ
著者
辻仁成/著
出版社
集英社
定価
本体価格 1600円+税
第一刷発行
2003/11
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ISBN 4-08-775328-X
 
君のぬくもりも、声も、輝きも、愛も、今は。
 

本の要約

三ツ星目前のシェフ・ジェロームのもとで修業中のハナ。ハナには恋人がいたが、情熱的なジェロームの告白により二人は結ばれる。しかしハナが病に倒れ…。至上の愛を描く、書き下ろし長編。



オススメな本 内容抜粋

はじめに

ハナとジェロームの、あの悲劇的な事件から三年を経て、私はようやく冷静さを取り戻し過去を振り返ることができるようになってきた。
二人の愛の物語について、どこから、どのような形で書き出せばいいのか分からず、長いこと、悶々と、原稿用紙の前で悩んできたが、本業である料理評論の仕事を脇に置いてでも、今こそ書き遂げなければ、と奮起した背景には、記憶の風化を恐れたという理由がある。
人間の味覚は老化の影響を受けにくいといわれる。
しかし風味はどうであろう。臨床的な味覚病理学では、風味(フレーバー)とは味と香りの組み合わせのことを言う。
残念なことに嗅覚は年齢とともに衰えてしまう。
私たちはよく味わいについて語り合う。
実はこの味わいのほとんどの部分が、嗅覚によってもたらされていることはあまり知られていない。
人生にも風味というものがあるならば、急がなければならない。
記憶は風化するし、嘘をつく。
人生の風味も、魚や野菜、肉同様、新鮮なうちに味わうべきであろう。
冒頭、種明かしをするように、悲劇的な事件と書いたが、読者がこの書物から、報道で知り得た情報を基に、ゴシップ調の物語を期待されるのは本意ではない。真実というものは、常に物語の内側に隠されているものであり、鼻をつまみたくなるマンステールチーズの匂いに編されてはならないのと一緒で、口腔に広がる熟成されたマンステールの味を一度知れば、その臭みもいつしか世界最高峰の香りの一つに変化する。
人生とは食べ物に似ており、風味の衰えないものはない。

いつかはあらゆるものが、自然に老い、その輝きは次第に失われてゆく。
人生にも草木に咲く花のような旬の輝きがある一方、ワインやチーズのように、優れた熟成を経て後、燦然と輝きはじめるものもある。
一言では言い尽くすことができない、という点でも両者は似ている。
私はこの真実の物語を執筆するにあたって、両人の友人、知人、料理人仲間たちへの徹底的な取材を敢行した。
これに費やした時間や、積み上がったメモは膨大な量となった。
取材を断られたのはジェロームの元の妻フランソワーズだけであった。
なぜこれほどまでに向きになってこの物語を完成させようと思ったのだろう。
それが私が生きていることの証ともなり、彼らが輝いていたことの証ともなる、と信じたためか、あるいは真の料理人の生きる姿を後世に伝えたかったからか。
または、あの日々を昔日の日溜まりに置き去りにしたくなかったからであろうか。
とにかく私は、かつて持ったことのない情熱をこの物語の中に注ぎ込むことができた。
彼らの愛の終着点は悲劇だったが、彼らは決して不幸だったとは言えないであろう。
いいや、むしろこういう幸福もあるのだ、とあの日々、私は流れ出る涙を押し留めることができなかった。
不幸と幸福は時として紙一重である。
彼らには最後の最後まで、神の尊い視線が注がれていた。

 

(本文P.3〜5 より引用)
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