光ってみえるもの、あれは
著者
川上弘美/著
出版社
中央公論新社
定価
本体価格 1500円+税
第一刷発行
2003/09
ISBN 4-12-003442-9
 
ああ、やっぱり僕は早く大人になりたい。不自由でよるべない16歳の夏。著者会心の「家族」小説。
 
光ってみえるもの、あれは

要約

ああ、やっぱり僕は早く大人になりたい―友がいて、恋人がいて「ふつう」からちょっぴりはみ出した家族がいて…生きることへの小さな違和感を抱えた江戸翠、16歳の夏。みずみずしい“家族小説”の誕生。

友がいて、恋人がいて、「ふつう」からちょっぴりはみ出した家族がいて・・・生きることへの小さな違和感を抱えた江戸翠、16歳の夏。



すべて世はこともなし ね、今日はどうだった。
たいがい毎日、母は聞く。
うん。ふつう。
というのが、僕の返事だ。決まっている。うん、と、ふつう。いつだって、このふたことだ。
それ以外の返事をしたことは、数えるほどしかない。というより、それ以外の返事(最悪、だの、最高、だの)をしなければならない時には、僕は母とできるだけ顔を合わせないようにする。
母と顔を合わせないようにするのは、簡単なことだ。母はとても忙しい。
母の職業はフリーライターである。
東京郊外のケーキ屋めぐり。家事をできるだけ合理的に手抜きする方法。熟年女性のためのコスメティック入門。
マンションの部屋の中での犬の飼いかた。
そういう類の文章を、母は書いている。
そのために、ケーキをいちどきに十二個食べたり、美白化粧品を五種類いっぺんに顔に塗ったり、洗剤のいらない食器洗い用ふきんをとっかえひっかえ使っては毒づいたり(あたしは洗剤のあの人工的な泡が大好きなのにっ、とかなんとか)、している。
うん、ふつう、と僕が答えるたびに、母はほんの少し不満そうな顔をする。
そう、と母は言う。
それならまあ、いいけど。
ほんとうはあんまりよくないことを、僕は知っている。
ふつう、という答えを、母は嫌っているのだ。
生活っていうものは、そんなに普通には過ぎてくれないものなのよ、と母は言いたいの
だ。最初から、僕が小学校に入学した翌日にはじめて母が聞いた「ね、今日はどうだった」のと
きから、高校一年生になった現在まで、母はそう思いつづけてきたに違いない。
最初に母が僕に「どうだった」と聞いたときのことを、僕は今でもよく覚えている。
「うん、ふつう」と、僕は小さな声で答えた。小学校一年生がかぶらねばならない黄色い帽子を目深にかぶって。大きすぎるランドセルには、おそろいの黄色いビニールの安全カヴァーをつけて。それら二つのまっ黄色に照らされた、細い首で頷きながら。
「ふつう?」と母は聞き返した。
「うん」と僕は答えた。
「普通ってことはないでしょ、なにかしら、あったでしょ」と母はたたみかけた。
それで、僕は一所懸命に考えた。
隣の席の女の子の顔が、飼っているミドリガメにそっくりだったこと。
先生が…度だけ僕の名字を呼び間違えたこと(えど、という僕の名字を、先生は、めいじ、と呼んだ。
僕も同級生たちもぽかんとしていたが、一人だけ笑った男の子がいた。それが花田だった。
花田についてはおいおい説明する機会もあるだろうから、今はしない)。
水道の水が金くさくてぬるかったこと。
休み時間に桜の木の下に立ってぼうっと見上げていたら、同じ組の男の子が「ばーか」と唯したこと。
同じように桜を見上げていた花田がその男の子に向かって「ガキ」と言い返したこと(花田の甲斐性に感心して、僕は花田の名札を読んだ。ひらがなの「はなだ」という文字は隙間が多くて、花田のみっちりとした印象を与えるたたずまいとは似合わなかった)。
「ふつうだった」と僕は、繰り返した。
「そう」と母はため息をついた。
どう考えても、小学校入学二日めのその日は、普通の日だった。僕が「ふつう」と考える範囲に、きっちりとおさまっていた。
「いやなことがあったら、我慢しないでお母さんに言うのよ」母は心配そうな表情で、言った。
うん、と僕は頷いた。細い首でもって。
「嬉しいことがあったときも、お母さんに言ってね。翠くんと一緒に喜びたいから」母は続けた。
僕はもう一度、うん、と頷いた。

(本文P.〜 より引用)


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