Curtain 
著者
谷村志穂/著
出版社
実業之日本社
定価
本体価格 1500円+税
第一刷発行
2003/10
ISBN 4-408-53446-3
 
遮られたくないものは、親子の絆、家族への愛・・・。嬉しいとき、寂しいとき、あなたと私の心に揺れる、出会いと旅立ち、8つの情景。
 

遮られたくないものは、親子の絆、家族への愛───皆が支え合うはずの「家族」の枠組みの中にも、一人一人のエゴや行き先があって、ふとしたことで家族はばらばらに解体されてしまう──。一見温かな灯りのともる家の中に吹く冷たい風に揺らめくカーテンのように、人の心の内側で切なく揺れる8つの情景をおさめた、人気作家の傑作短篇集。



新しい部屋のキッチンは、メイプル材のフローリングとリビングヘの対面式のカウンターが特徴だ。
リビングルームは十八畳で、窓が二面をしめており、朝の差し込む光を浴びて、夫が先ほどからソファに座り新聞を読んでいる。
二十七歳の夫と、もうじき三十三歳になる少し年上の妻には、夢のような新居といってもいいのかもしれない。
なのに、妻−大久保純子には、そんな朝の風景さえもがどこか重荷に感じられている。
トーストとサラダとフルーツジュースという朝食の後かたづけをしながら、純子はカウンタi越しに夫に声をかける。
「今日、ようやく力ーテン屋さんが来て下さるそうだけど、何かイメージはある?」
一夫は新聞を手にしたまま、一瞬視線を上げた。
コ人で、大丈夫?」
純子は、その言葉にまだかすかに傷ついてしまう自分を見つける。
「あなたが一緒の方がいいに決まっているけど、今度の日曜日までは延ばせないでしょ う?」
夫は、小さく頷くと、
「まあ、力ーテンはシンプルなところでやっておいていいんじゃないか」
" シンプルなところ"……夫の大久保慶一は、カーテンに限らずシンプルなところという、その言葉で表されるようなものが好きだ。ただのシンプルでもなく、ところ、とつくのが彼らしい。派手な物を好まないし、いつも差し障りのないところで人生を歩もうとしている。選んだのにシンプルでなかったものは、出会った頃の彼女の心の様子くらいだったことだろう。
「予算は、一応いくらくらいにしておく?カーテンって案外高いから」
「予算ね」
慶一は新聞を置くと、ため息をついた。
「だいたいこの部屋は、力iテンボックスが端から端までついているんだよな」
光の差し込む窓を振り返る。
「そうだったかしら」
「気付いてなかった?」
「窓が多いなってことには気付いていたけど」
「まあ、無理のないところでお願いしますよ。そもそも引っ越しでもう十分予算はオーバーしてしまっているわけだから」
純子は、しだいに不安になってきた。本当に自分一人で大丈夫なのだろうか。
「もし、とっても高かったら、どうする?」
「とりあえずリビングだけは急ぐけど、あとはあり合わせの力ーテンでやっておこうよ。前のそれぞれの家の分とかさ」
純子は、二人分のコーヒーをいれるとソファに並んだ。夫は、出勤前のこの束の問の時間を大切にしてくれているらしかった。
ソファに並んで腰掛けながら、ふと夫の整った横顔を見た。
切れ長の涼しげな目につんと上を向いた鼻をしている。まだ賛肉のついていないしなやかな体にブルーのストライプのシャツがよく似合っている。
夫は、なぜこんな自分がいいのだろうかと純子は思う。
力ーテンの注文すらも、安心して頼めないような年上の女を。
1慶一さん、色々すみませんね。本当に純子のどこがよかったのですか?
そう母が聞いたときに、彼はこう答えたのだそうだ。
1純子さんは、僕にないものをみんな持っているんです。
結婚を前に、彼女の借金を両家でまとめて返済しようというときに、慶一と母親ははじめて会った。
銀座の喫茶店で待ち合わせをして、彼らは返済の手続きのために、銀行に向かった。純子は一人喫茶店にのこった。そのときにも胸の中にざらざらした違和感を覚えていた。
やはり、重荷だった。私は果たして、暮らすということができるのだろうか。きちんと暮らせたとしても、一生彼には負い目がある、と。
「じゃあ、夕飯までには帰るからね」
彼は必ずそう言って出かける。結婚して半年経つが、夕飯はいらないとか、今日は外で取るからと言ったことは数えるほどしかない。たぶん、純子を一人にしないよう努力してくれているのだろう。結婚して、知らない土地に来てしまったということもある。といっても、都内に暮らしていたのが茨城に移ったというだけだ。でもここには純子の友人も、彼女の行きつけだった店も、よく知っている本屋さえない。
「待ってる」
コーヒーカップの中でミルクが渦をまいて沈んでいくのを見ながら、純子はまた、静かに過ぎていくこの部屋の一日の様子を想像する。
これでよかったのだと思おうとする。
一人暮らしはもう十分経験した。
純子は、一人の寂しさにうまく耐えられなかった。今だってきっと、慶一が帰ってこなければ、食事も適当に、ただだらだらと部屋の中で時間を費やしてしまうことだろう。
慶一の帰宅を待つ、それが今の純子の一日の中の唯一のタイム・スケジュールといっていい。
彼が帰ってきたからといって、特別に賑やかな食卓になるわけでもないのだが。
「行ってらっしゃい。今日は暑そうだから、ドライカレーでも作っておこうかな」
「無理しないで。どうせ夕飯の予定は変わるでしょう?」
夫は、悪戯っぽく片目を瞑ると、玄関で靴の表面の汚れをきれいに落とし、出て行った。
マンションの廊下から、外のすでにむわっとぬるまった空気が入り込み、彼の使っているオーデコロンの匂いが扉の内側にのこった。
夫の言うとおり、早くも、カレーなど作る気がなくなった。
とりあえずもう一度眠ろうと思った。
いつまで経っても、朝きちんと起きる生活に純子は慣れることができないのだ。
呼び鈴が鳴って、キッチンについているモニター画面を見た。
夫が何か忘れ物をしたのかと思って軽い感じで応答をしたら、おでこの丸い、どこかキューピー人形に似た男が立っていた。
「T社の遠野です」
ハンカチで顔の汗を拭っている。こんなに早く、約束したのだったろうか?
「あの、─いえ、どうぞ」
純子は、慌てて部屋の中を確認するように見た。
掃除も行き届いているし、テーブルの上にもコーヒーカップが二つあるだけだ。それでも呼び鈴が鳴るとすぐに部屋の中を見渡してしまうのは、独身時代からの癖だった。
彼女の一人暮らしの部屋には、よく様々な妙な痕跡たちがのこっていた。
男物の靴下が片方、何かの染み、紙の切片……。
(本文P.7〜11 より引用)


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