クレオパトラの夢
著者
恩田陸/著
出版社
双葉社
定価
本体価格 1400円+税
第一刷発行
2003/11
ISBN 4-575-23483-4
 
追い求めているものは「伝説」なのか?
 

北国の街に交錯する、密やかな思惑と駆け引き。恩田陸の無限のイメージが、遠い記憶を呼び覚ます、「MAZE」に続くシリーズ第二作!追い求めているものは「伝説」なのか・・・?

不倫相手を追いかけていった妹の和見を追いかけ、酷寒の地H市を訪れた恵弥、すでに相手の男は死んでいた。男の不可解な死、突然失踪した和見、恵弥を尾行している謎の人物……。恵弥はその類いまれな能力で、男の死に隠された驚くべき真相を掴む!



T
駅のホームに降り立った時、神原恵弥はこの上なく不機嫌であった。
なによこれ、寒いじゃないの。
中肉中背、すっきりと髪を刈り上げ、精桿、端整、酷薄、とでも形容すべき顔で周囲をじろりと見回した男は、黒革のパンツに黒のブーツ、黒いムートンのコートという隙のないいでたちである。
暖かい電車の中とは違って、ホームは一瞬頬を打たれたかのような冷たい空気に満ちていた。
色彩もどこか温度が低く、曇りガラス越しに見ているがごとく距離感がある。
男はコートの衿をいまいましそうに合わせると、一種異様な雰囲気を漂わせ、黙々とホームを歩いていく。
まだ青年の匂いを残しつつも老檜さと執拗さを感じさせる彼を、ちらちらと周囲の人間が盗み見ているが、彼らがその職業を言い当てるのは難しかろう。
もう。なんというアンラッキー。せめて夏だったらよかったのに。
恵弥は密かに溜息をついた。
元々、彼は寒いのが大嫌いである。
できれば一年中南の島のビーチで、カクテルを舐めながら、左右に恋人をはべらせてうだうだ暮らしたいくらいだ。
だが、人間、食べていくためには働かねばならぬ。
彼は三十代半ばというこの年齢にしては、世間の同世代の連中よりもかなりの収入を得ていたが、「あたしは金のかかる男」というほとんど信条に近い自覚を持っていたので、その収入をもってしても更なる労働が必要となるのであった。
今回、彼が大嫌いな酷寒の地(あくまで彼の目から見ればだが)、H駅に降り立ったのは幾つかの理由がある。
そして、その理由の一つとなる人物が今、駅の改札口で待っているはずであった。
うああ。灰色だわ。灰色の空、灰色の雲。先行きまで灰色じゃなきゃいいんだけど。
ホームの屋根の間から見える空は、遠近感を失わせる雲に一面覆われて光の気配はない。
彼は、時と場所との認識を喪失したような奇妙な感覚に襲われた。
その一方で、ほのかに黒い影が横切るように思えたのは、雪がちらちら舞い始めたからだと気付き、彼は「まあ、雪だわ」という子供のような歓びと、「げっ、雪だ」という寒さへの警戒とが入り混じった複雑な感情を同時に覚えたのである。
暗い駅舎の向こうに、ぽっかり開けた駅のロータリーが見える。
そのロータリーは、既に何度か雪が降っているらしく、灰色がかった白に踏み固められていた。
宙を舞う無数の黒い雪。
恵弥は、ホームを降り立った時に感じた頬を打つ冷気が、今は粟立つ予感に変化していることに驚いた。
何かしら、この感じ。前にもこんな感じを味わったような気がする。
恵弥は記憶を探った。彼の脳の鋭敏な検索機械も、今は何も返答してくれない。
「恵弥」
ハッとして声のほうを見ると、改札の向こうに、髪の長いすらりとした女が立っていた。
そこだけ色彩があるようだ。彼女の芯の靭さが、瞬時に、光が射すように伝わってくる。
この子って、昔からこうだったわ。
「和見。お久しぶり」
恵弥はかすかな笑みを浮かべ、数年ぶりの再会になる女の前に立つと、小さく首をかしげてみせた。
「髪、随分伸びたのね。見違えちゃったわ」
「そう?昔から長くしてたことが多かったじゃない」
「就職してからはずっと短くしてたでしょ」
「ああ、そう言われてみればそうかも」
ちょっと見には、三十代半ばのカップルに見えるかもしれない。それも、長い間つきあっている、しっとりとした端正な大人のカップル。
しかし、二人の会話に耳を澄ましてみたならば、見た目とのギャップに戸惑うだろう。
それは、まるっきり女子高校生どうしの会話か、仲のよい姉妹の会話としか思えないからだ。
(本文P.3〜5 より引用)


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