幕末の彦根藩、湖畔の城下町で染め付けの陶磁器窯を起業する! 商いの醍醐味、職人の誇り、藩主・井伊家の戦略、そして夫婦の情愛。著者初の経済時代小説。
虫の知らせというものが本当にあるのだとしたら、あの日の朝のようなことを言うのだろうか。 絹屋半兵衛の妻留津は、ふと五日前のことに思いを馳せ、ひとつ大きく息を吸い込んだ。 安政七年(一八六〇年)の三月三日。 前日から、寒の戻りとか名残の雪などと呼ぶには烈しすぎるほどの大雪に見舞われ、その朝留津は、柱や梁がきしむような、不吉な音で目を覚ました。 近江の国、彦根の城をもかき消すほどのときならぬ雪は、ひとしきり降っていたかと思えば止み、しばし止んだかと思えばまた降りはじめるといった様子で、めずらしく一尺半(約四五センチ)ばかりも降り積もった。 「雪は、まだひどいのかいなあ」 半兵衛は、留津より先に目覚めていたらしい。 このところ、いつになく身体の不調を訴えていたのだが、布団の上で大儀そうに寝返りをうち、そのたびにきまって咳こんでいる。 「風は、きつそうですけど……」 留津はゆっくりと目を開きはしたが、布団のぬくもりからひと思いに抜け出す決心がつかないまま、半兵衛の方を向いてそう答えた。 「火は……、火は大丈夫かいなあ」 半兵衛が、咳を堪えながらまたも言う。火というのが、なんのことを意味しているのか、留津にはいまさら言われずともわかっている。 それにしても、夫の声は、いつからこれほど頼りなげになってきたのだろう。あれほど艶やかだった肌は、白い粉がふいたように渇ききり、深い鐵がとみに目立つようになった。 三十路のころから、すでに髪には白いものが目立ってはいたが、一日中大きな声を張り上げて、いっときたりともじっとしていることのなかった若いころの半兵衛は、五尺三寸(約一六一センチ)の背とは思えないほどに、誰よりも大柄で頼もしく見えたものだ。 その半兵衛も、今年でついに七十歳を迎えた。 「なあ、留津よ、火はどうなったやろ……」 半兵衛は低い声で繰り返し、無理にも起き上がろうとする。 「あ、いけません。うちが、見てきますから」 言い出したら聞かないのは、半兵衛には常のこと。留津は、思いきって布団の上に身体を起こした。 途端に、凍てつくような寒気が、薄い木綿の夜着越しに、起き抜けの留津の肌を刺す。 その瞬間、頭のすぐ上のほうで、またも天井の梁がみしりと音をたてた。まるで家中が大きく身悶えするような、気持ちの悪い音だった。 そして、それに呼応するように、今度は茶碗の割れる音が聞こえた。 「何事や」 半兵衛が、神経質そうな声をあげた。 「すみません。おおかた、奥でおいとが粗相をしたのですやろ」 留津はそう言って立ち上がった。 そのときである。 えも言われぬ不思議な感覚に、激しく全身を揺さぶられるような気がして、留津は思わず声をあげた。 黒羽二重地に鮫小紋の着物と、黒地に細かな菊唐草を織り込んだ半幅の帯は、このところ、留津が好んで選ぶ装いだった。 年相応を思えば、地味に抑えた色使いにしなければならないが、その分、質のよさに凝るのが近江の商家の妻のたしなみである。 ましてや彦根の絹屋といえば、代々続いた呉服商い。近江から京にかけて、大仕掛けの古着商として名を馳せる大店でもある。 だが、その朝の留津は、帯を締めるのももどかしいほどに、気が急いていた。 もしや、何かとてつもないことが起きているのでは……。 逸る心を抑えかねて、留津はその胸に手をやりながら、小走りに奥座敷を出た。店の間を通り、ころがるように三和土に降りる。 土間に立った瞬間、足下から這いあがってくるような冷気に、留津は思わず身震いをした。 だが、それはあながち寒さゆえだけではない。 きっとなにかある。 まちがいなく、なにか異変が起きている。自分を捕えて離さないような、そんな確信にも似た感 覚は、その朝の留津をひどく戸惑わせていた。 それでもなんとか気を取り直し、かじかんだ両手で、木戸を開けようとする。だが、湿ってすべりの悪くなった戸は、留津の力では思うように動かなかった。やがて、物音を聞きつけたのか、小兵衛が足早にやって来た。
このページの画像、引用は出版社、または著者のご了解を得ています.
当サイトが引用している著作物に対する著作権は、その製(創)作者・出版社に帰属します。 無断でコピー、転写、リンク等、一切をお断りします。
Copyright (C) 2001 books ruhe. All rights reserved.