ウサニ
著者
野島伸司/著
出版社
幻冬舎
定価
本体価格 1400円+税
第一刷発行
2003/09
ISBN 4-344-00394-2
 
ウサギのぬいぐるみに入った精霊“ウサニ”がさえない青年に恋をする――。「どうして男の人は浮気をするの?」という命題の答えを探り、真実の愛が見えてくる、かわいくて切ないファンタジー小説。
 

なぜ愛し合っているのに、男の子はみんな浮気するの?傷つくことを恐れ、心に鍵をかけてきた、世界中のすべての女性に贈る、感動のラブ・ストーリー。これを読めば、あなたはきっとまた恋がしたくなる!



母さん、ぼくはアマゾンの奥地で死にかけています。黄色いヘビにかまれたんです。
頭がもうろうとするので、おそらくは毒ヘビでしょう。
ペルーのリマでやとった現地のガイドは、チョビうさん臭いと思った通りのうさん臭さで、アッという間に道に迷い、あげくぼくを一人置き去りにして立ち去りました。
助けを呼んでくると言ってましたが、おそらくはもう戻らないでしょう。ぼくはシクシク泣きました。とてもみじめな気持ちがしていました。
なぜってぼくは探検家でも植物学者でも密猟者でも、まして世捨て人でもないのです。
どうしてこんなとこで、こんな目にあわされているのでしょう。
すべては父さんのせいです。
父さんは頭が少しイカレてしまったんです。
最愛の母さん、あなたを去年の暮れに亡くしてしまったから。
もちろんぼくにとっても、あなたの死はかなりショックなことでした。
それでも不思議なもので、自分以上に遥かにショックを受けてる父さんを目の前にすると、ぼく自身の悲しみはどこかに呑み込まれてしまったのです。
聡明できれいな 母さん。
いつも穏やかな花のようで、永遠に側で咲いていてくれるものだと、父さんは疑いもせず信じていたんですね。
星の王子さまの一節を思い出します。自分だけの、世界で一つだけの花だから、大切でいとおしいのだと。
しかし人は愚かなもので、失って初めて気づくことが多いのでしょう。
そういうぼくも、悲しみは父さんに吸収されてしまいましたが、喪失感は同じように果てしなく広がっていきました。
多くのことを母さんに教わったからです。
毒がまわってるせいか、口元にあぶくが溢れてきました。
母さんから教わった一つ一つを今すべて思い出すのは無理なようです。
ただ目の前にキラキラといっぱいの日差しを浴びて輝く水面があるからでしょうか、透明の鉢の話を思い出します。
母さんは小さかったぼくにいつもこう言いましたね。"人の胸の中には透明な鉢があるのよ。それを心と呼ぶのよ。生まれた時、赤チャンの心にはきれいな水がいっぱい入っているの。そのずっと底の方にね、小さなお魚が泳いでいるの。だけど、その人が嘘をついたり、他人を妬んだり、悪ロを言うと、どんどん心の水は濁ってしまうのね。そうして最後は小さなお魚は苦しくて死んでしまうの”。
小さかったぼくは、なんだか恐ろしくなって、その日から隣のクラスのイジメッ子の悪口も、貧しくてスカートにつぎをしていた女の子をから
かうこともやめました。
喉元まで出かかっても、ずっと我慢をしました。いつかそうしたことが普通になり、ぼくは誰を悪く言うことも、妬むことも、嘘をつくこともなくなったように思います。
やがて成人して、機械の設計の仕事で東京に就職しましたが(母さんに
きれいな水玉のネクタイをプレゼントしてもらいましたね)、職場でぼくはどこか付き合いづらい人間に思われていたかもしれません。他人の話に合わせることができなくなったのです。
驚いたことに、世の中の人の話のほとんどが、グチや嘘や悪口に関係していたからかもしれません。
ぼくはポツンと一人になっていましたが、それは空間的なことで、とりわけ寂しい気持ちになってはいませんでした。
母さんはその話の最後にいつもこう付け足していましたね。
" 心の中のそのお魚をね、魂と呼ぶのよ”。
ああ、母さん。ぼくは運動も、勉強もたいして優秀ではありませんでした。
だけど心の中のお魚はまだ元気に泳いでいると思います。
毒がまわって力無い体になるとよく分かります。
ピチャンピチャン、ぼくの魂はなお元気です。
そのことがあなたに息子として誇れる唯一のことのように思えます。
母さんはぼくの母親であり、先生であったのです。
ポカンとあなたを失った大きさで、ぼくは仕事に身が入らなくなりました。
だから父さんの誘いに乗って脱サラしたことは後悔していません。
父さんの提案により、母さんの生まれた土地で、土いじりなどしたこと
のないぼくたちが、母さんが好きだったという理由だけでイチゴの栽培を始めたことも、なにかロマンティックなものと感動さえしていたのですから。
だけどやはり無謀だったのです。
手に入れた土地はかなり痩せていたせいもありますが、素人二人がいくら懸命に頑張っても、スッパいだけで形もへんてこりんなイチゴしかできませんでした。
もちろん商品として出荷できるような代物ではありません。
ぼくの貯金はしれてましたが、父さんは全財産を失って、次第に無口になっていきました。
小さな村の図書館で、一日中、母さんの好きだった読書の世界に逃避してしまいました。
声をかけるのも気の毒なので、ぼくは一人透明なビニールハウスの中、小さな魚のように働いていました。
ところが先週の夕暮れ時のことです。もう還暦も近い父さんが、かなたの土手からサーカスの熊のように転がりながらぼくに駆け寄って来たのです。
その時ぼくは、瞬間体を硬くしました。破産した父さんはついにおかしくなって、ぼくと無理心中をはかるつもりだと感じたからです。なぜならふさぎ込んでいたハズの父さんは、壊れたオモチャのように満面笑顔でぼくに突進して来たからです。
「今からすぐに行こう」
ぼくはとっさに、置いてあるカマを後ろ手に隠しました。
「行こうって?天国に」
(本文P.3〜6 より引用)


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