東京大学応援部物語
著者
最相葉月/著
出版社
集英社
定価
本体価格 1500円+税
第一刷発行
2003/09
ISBN 4-08-781153-0
 
たった一球に絶叫した。たった一勝に号泣した。こんなやつら、見たことない。これが天下の東大生?!はみだしエリートたちのささやかな奇跡。
 

目次]
第1章 夏合宿(トマト;惨敗;矛盾;仲間;大出走;大マス);第2章 葛藤(自己犠牲;下級生;三年;信念;野球部;もうひとりの三年);第3章 秋神宮(開幕;立教戦;奇跡);第4章 ただひとつ(退部届;カツカツ;大空と;学ラン;一一人;ひたぶるの)


19対0と一方的な展開の9回裏、「オーイ、東大、絶対にー、逆転だー」バケツの水をかぶり、腕を振り上げた。彼らはいったい何者なのか。



トマト

北信州に位置する戸狩野沢温泉は、JR長野駅から飯山線で千曲川沿いを一時間ほど揺られた海抜四、五〇〇メートルの高原にある。
パノラマ、とんだいら、サンシャイン、と三つのゲレンデを背にしたこの一帯は、冬はスキー、夏は大学のクラブやゼミの合宿のメッカである。
みやげもの屋も食堂もみな盆休みに入った平成十四年八月十四日、なだらかな坂道に沿って並ぶ二階建ての小さな民宿はどこも学生たちでにぎわっていた。
玄関先に並ぶクラブや同好会ご一行様歓迎と書かれた看板や、庭先に干された何十枚ものシャツやタオルは、この町の夏の風物詩である。
「わあおうわあおう、とおあーだい。わあおうわあおう、とおあーだい」
午前十時ごろ、青々とした畑の合間を切るように続くアスファルトの緩やかな下り坂を大声を上げて走る一群があった。
Tシャツと短パンにキャップをかぶり、身長は一八○センチを超える者から一六〇センチに満たない者まで、腹回りの太い者や少年のように手足の細い者もいた。
先頭の男を中心におしくら饅頭のようにぶつかり合い、五〇メートルほど走ると馬跳びをし、再びぶつかり合ってまた五〇メートル走ると、今度は互いを負ぶって走った。
「わあおうわあおう、とおあーだい。わあおうわあおう、とおあーだい」
畑仕事をしていた老婆が何ごとかと腰を伸ばし、彼らが通り過ぎるのを見つめている。
それと知らなければ何を叫んでいるのかわからないが、耳をすまして聴きとれた瞬間、ああ、と了解する人もいる。
「東大の学生さんたちだね」
坂の途中にある民宿の主人は目を細めた。
東京大学運動会応援部の夏合宿は、三年ごとに同じ場所で行われる。
戸狩野沢温泉は、四年の幹部部員が新人のときに訪れた土地だった。
坂を走る一一人は、ふだんは学ラン姿で応援席の学生たちを先導する、リーダーと呼ばれる部員だ。
先頭は、リーダー長の鶴崎一磨。賛肉のない鍛えられた細く長い脚は、休むことなく前へ前へと動いた。
鶴崎に体当たりしながら続くのは、三人の三年部員、二年部員がひとり、そして、この春に入部した五人の新人たちである。
新人のひとりはアキレス腱を痛めているらしく、先輩に気遣われながら、足を引きずって走っていた。
鶴崎の合図でみなが立ち止まると、道路脇の空き地で拳立てが始まった。
拳で支える腕立て伏せは、指の関節に全体重がかかる。
小石が皮膚に食い込んで出血することもある。
額から汗が滴り、眉が吊り上がって顔が歪み、下半身は徐々に地面に擦れ、引き剥がそうとしても上がらなくなっていった。
「おめえら、神宮でぶっ倒れたいんかあ」
挑発的な言葉を発したのは鶴崎ではなく、三年だった。
「いいえええ一」
下級生たちは、うめきながら首を振る。
体勢の崩れかけた二年の腰を鶴崎が蹴り上げると、その部貝は「うおおおお」と叫び声を上げた。
通りかかった車の運転手は異様な光景にひらりと視線を泳がせ、後部座席の子どもたちは身を乗り出した。
一五分ほどで拳立てが終わると、再び鶴崎を先頭にいっせいに走り出す。
炎天下、汗に濡れたTシャツは背や腹にへばりつき、雨の日のようにジュルジュルと運動靴が鳴った。100メートルほど走ると、今度は畑の資材置き場前で腕の強化訓練が始まった。
「いーち、にーい、さーん、しーい」
「ごーう、ろーく、しーち、はーち」
号令をかけながら拍手を繰り返す。たんなる拍手ではない。
拍手し、腕を伸ばしながら肘から先は直角よりやや大きい角度に広げ、そこでいったん動きを止めて型を決め、再び拍手する。
拍手、型、拍手、型、ひたすらその連続。
応援歌に合わせて腕を振るおなじみのポーズの練習である。
リーダー・テクニックを略し、テクと呼ぶ。
疲れて腕が肩より下がると、三年が下級生と睨みあってテクの手本を示す。
鶴崎は相変わらず何もいわず、時折口元に笑みを浮かべた。
主将の石橋悠司は、数メートルほど後ろを給水用のやかんを持って走っていた。
少し離れたところで、やはり無言で練習を見守っている。
声を嗅らしゲエゲエ吐く新人、意識が遠のきふらつく二年。
じっと見つめていた石橋は、ゆっくりと下級生のほうへ進むと、ひとりひとりの帽子をとって束ね、その場を離れた。
熱射病になるのではと案じつつ見ていると、石橋は近くの小川に下りていき、流れに帽子を浸すと彼らの頭に再びかぶせた。

(本文P.8〜11 より引用)


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