疾走
著者
重松清/著
出版社
角川書店
定価
本体価格 1800円+税
第一刷発行
2003/08
ISBN 4-04-873485-7
 
剥き出しの「人間」どもの営みと、苛烈を生き抜いた少年の軌跡―。比類なき感動の結末が待ち受ける、現代の黙示録。重松清、畢生の1100枚。
 

この物語は、あなたの中で「事件」になる。 「どうして、にんげんは死ぬのか?」むき出しの人間どもが生み出す暴力と憎悪、蔑視の中、身を切られるような「孤独」を抱えて少年は走りつづける。比類なき感動の結末が待ちうける、現代の黙示録。重松清、畢生の1100枚!!

本書オビより    
「どうして、にんげんは死ぬの?」舌足らずなおまえの声が言う「にんげん」は、漢字の「人間」とも片仮名の「ニンゲン」とも違って、とてもやわらかだった。そのくせ「死ぬ」は輪郭がくっきりとして、おとなが言う「死ぬ」のような照れやごまかしなどいっさいなく、まっすぐに、耳なのか胸なのか、とにかくまっすぐに、奥深くまで、届く−−−。想像を絶する孤独のなか、ただ、他人とつながりたい・・・それだけを胸に煉獄の道のりを懸命に走りつづけた一人の少年。現代日本に出現した奇跡の衝撃作、ついに刊行!



第一章

1

小高い丘にのぽると、ふるさとが一望できた。
緑がまなざしからあふれ出る。水田だ。
きちんと長方形に区分けされた升目が、無数に広がっている。
平らた土地。水田の先は海。陸と海を、コソクリートの堤防が隔てる。
「昔は」
シュウイチが言った。
ここだここ、と水田地帯に顎をしゃくる。
「俺たちの生まれるずっと前、ここはぜんぶ海だったんだ」
おまえは半信半疑の顔で、ふるさとを眺める。
「ほんとだぞ」シュウイチは言う。「国道から先は、昔はずうっと海だったんだ」
シュウイチはおまえの四つ年上で、おまえはまだ小学校に入ったばかりだった。
物知りた兄だった。おまえはシュウイチのことが大好きだった。
「どうして?」とおまえは訊く。
「どうしてって、なにが?」とシュウイチは聞き返す。
「どうして海が田んぽにたったの?」
物知りたシュウイチは、自分のわからたい問いが出てくると、いつも聞こえないふりをする。
しつこく尋ねると、ときどきおまえの膝をつねる。
だから、おまえはもうたにも言わたい。
草の上に膝を抱えて座り、広大た陸地を端から端まで、監視カメラのようにゆっくりと首を振って眺める。
季節は夏。風が吹き渡る。そのたびに、稲の葉裏の少し色の淡い緑が、まるで波頭のように滑っていく。
シュウイチは、「帰ろう」と声をかけた。
だが、おまえは動かない。
まなざしを緑の水田から、午後の陽射しを浴びて色の白く抜けた海へ放る。
島の多い海だ。台風でも来ないかぎり荒れることはない、静かでおだやかた海でもある。
おだやかすぎて潮の流れが滞ってしまい、十年に一度ぐらいの力き割合でひどい赤潮が発生する。
牡蠣やハマチの養殖業老の一家心中のニュースが流れるのは、たいがい赤潮発生の三ヵ月後だ。
コソクリートの堤防はまっすぐに海を切り取っていて、それが左右の岬に行き当たるまで、数キロにわたってつづく。
丘を下りて水田地帯を文字どおり縦横に走る直線道路にたたずむと、堤防のつくった地平線が見える。
シュウイチが口笛を吹いた。
その頃流行っていた歌の、化粧品のコマーシャルに使われていたサビの部分。
おまえが口笛に少し遅れてメロディーを口ずさむと、弟に真似をされたのが嫌だったのだろう、シュウイチは前に突き出していた唇を引っ込めた。
「ごめんなさい」とおまえはしょげ返って言う。
シュゥィチは従順な弟の態度に満足そうにうなずき、今度は歌の最初から口笛を吹きはじめた。
おまえは低くハミングして歌をたぞりたがら、足元の雑草をむしる。
おまえは草をむしるのが好きた子どもだった。
むしったあと、草と土のにおいの混じり合った指を嗅ぐのが癖だった。
口笛が終わる。
シュウイチは「帰るぞ」と言った。
うたがしたのではたく命令だった。
おまえは立ち上がる。海と陸と、それから空を眺めて、もう一度、訊いた。
「どうして海を田んぼにしたの?」
シュウイチはヘヘっと笑うだけで、やはりたにも答えず、丘を下る小径を歩きだした。
躰まえはあわててあとを追う。
「おにいちゃん、おにいちゃん待って、おにいちゃん」
置いてけぼりをくうのが怖かった。
おまえは臆病で寂しがり屋で、少し甘えん坊なところのある子どもだった。
おまえが生まれるずっと昔、腹いっばい白い飯を食べることがなによりの夢だった時代があった。
誰やもが痩せこけた体で、今日の命を明日へつたぐことだけを考えていた、そんた時代があった。
生きるために、ひとは海を陸地に変えた。
時がたてば、おまえは知る。この水田地帯は干拓によって生まれた土地だった。
ひとは長い長い時間をかけて泥を土に変え、長い長い時間をかけて土の中から塩分を抜いて、そこに稲の苗を植えた。
風向きひとつで海の塩分が降りそそいでくる土地で、稲を育てた。
おまえのふるさとは、そういう町だったのだ。

(本文P.3〜5 より引用)


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