翳りゆく夏
著者
赤井三尋/著
出版社
講談社
定価
本体価格 1600円+税
第一刷発行
2003/08
ISBN 4-06-211989-7
 
20年前の新生児誘拐事件で封印された真実が、いま明らかに。第49回江戸川乱歩賞受賞作。
 

誘拐犯の娘が大新聞社の記者に内定。とスクープされた20年前の事件の再調査を託された窓際記者が、執念であばく封印された「真実」。

【第49回江戸川乱歩賞受賞作】誘拐犯の娘が記者に内定。その時、大新聞社は震撼した!犯人、被害者、新聞記者、刑事---「家族の絆」と「事件の傷跡」。20年前の新生児誘拐事件で封印された真実が、いま明らかに。選考委員全員がミステリーとしての完成度に酔いしれた、ハードボイルド長編!



十二階のすべてを占有する役員室と秘書室は、階下の編集局や広告局、販売局や事業局などと違って、空気が浄化された静諦な空間で、一種近寄りがたい威厳を漂わせている。
チャコールグレイとブラウンの格子模様の廊下。
一方の壁には明治時代以来の歴史的ニュースを報じる東西新聞の一面トップがずらりと並べられている。
それは西南戦争に始まり、日清、日露の両戦争、関東大震災、無条件降伏、朝鮮戦争、東京オリンピツク、人類初の月面着陸、ドルショック、田中元首相逮捕、ソビエト崩壊、阪神淡路大震災、オウム真理教事件と続き、崩れ落ちてゆくニューヨークの世界貿易センタービルで終わっていた。
陳列ケースになっているもう一方の壁には、東西新聞社の概要が分かりやすくディスプレイされてあった。
一日に使用する新聞用紙は約千五百五十トン。
直径約一メートル、重さ八百五十キロのロール紙に換算して千八百巻余り。
新聞インキは二十ニトンに及ぶ。
その概要説明に続いて、新聞協会賞をはじめとする数々の楯やトロフィーが等間隔に展示されている。
東西新聞社人事厚生局長の武藤誠一は、そのまま秘書室に突き進んでいった。
全面ガラス張りになっている秘書室では、今日も十数人の秘書がゆったりと配置された観葉植物の間で、常務取締役以上のスケジュール調整や冠婚葬祭の手配を行っている。
飯島秘書室長が、一番奥のデスクで武藤を待っていた。
武藤とは同期入社。北国出身らしく白く端正な面立ちに、そこはかとなくニヒリズムを漂わせている。
飯島は彫刻家のような手で、デスク脇にある応接セットに座るよう武藤に示した。
「俺が見た限り、社長はそれほど怒ってはいない。むしろ少しばかり面白がっている様子さえ窺える」
武藤に向かい合って座った飯島は、顔を突き出し小声で切り出した。
「社長の逆鱗に触れるようなことはやっていない」
飯島はタバコに火をつけ、ため息とともに煙を吐き出した。
「とにかく、事実だけを杉野社長に正確に話せ。今のような開き直った言葉は、社長が二番目に嫌う態度だ。念のためにいっておくが、くどくどと聞き苦しい言い訳もするな。それは社長が一番嫌う態度だ。謝るべきところは、きっちりと謝れ。今のところは、そうご機嫌斜めでもなさそうだが、お前の対応しだいではどうなるか分からん。君子は常に豹変する」
「……分かった。それだけか」
「それだけだ」
武藤は立ち上がった。
「武藤」
「うん?」
「お前らしいよ」
「何が」
「お前のやったこと、じゃないな、敢えてやらなかったことだ。間違っているとは俺は思わない」
武藤は軽く頷いて、役員執務室に続く扉を開いた。
広い廊下の一番奥に、杉野俊一東西新聞社代表取締役社長の執務室がある。
廊下の両脇に並ぶ重役たちの樫のドアを通り過ぎ、社長室のひときわ重厚な扉をノックした。
数秒の後、静かにドアが開けられた。
その瞬間、杉野社長の大きな罵声が武藤の耳をつんざいた。
だがそれは、武藤に向かってのものではなかった。
広々とした社長室。
奥のデスクで杉野社長が、こちらに背を向け、受話器に向かって怒鳴っているのだった。

ドアを開けた岸辺広告局長が肩をすくめ、武藤の耳元で曝いた。
「さっきまでは穏やかに話してたんだがな、だんだん激してきて、ああなっちまったんだ。相手は誰だと思う?」
武藤は首を振った。
「秀峰出版の乾社長だ」
武藤はため息をついた。
「これからしばらくの間、うちと秀峰の間でドンパチが続くだろうな。書籍や雑誌の広告出稿も期待できん。それもこれも、すべてお前さんが原因だ」
半ば諦めたような口調でそう言って、広告局長は部屋の中央にある応接セットに腰を下ろした。
杉野は、とても全国紙の社長とは思えないような捨て台詞を吐いて、叩きつけるように受話器を置いた。

(本文P.5〜7 より引用)


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