『催眠』嵯峨敏也、『千里眼』岬美由紀に次ぐ第三のカウンセラー登場!!新宿・歌舞伎町のビル火災で、黙秘する目撃者の証言をいとも簡単に引き出した臨床心理士の一ノ瀬恵梨香。内閣情報調査室に所属する宇崎俊一は彼女の力を借りて、首都を一瞬にして葬り去る可能性を持った新型爆弾の探索に乗り出した。前作『千里眼のマジシャン』とは趣を変え、人間の心理を手際よくストーリーに絡ませたその趣向は、処女作『催眠』に通じるものを感じさせる。
この世のすべてが幻だと思う。 緒方麻美はまたそんな感覚にとらわれていた。 いや、わたしだけではないのかもしれない。 たぶんここにいる、全員がそうだろう。酒のせいではない。 飲んではいないのだ。 この感覚は、初めて店に足を踏み入れたときから変わっていない。 そしてそれは、ずっと昔からつづいていたようにも思う。 いつごろからだろう。 思いだせない。 店に勤めはじめて半年、なにもかもが映像のようだった。 薄っぺらく、現実感を伴わない幻影のような世界。 店内のあちこちで沸きあがる嬌声、カラオケを歌う男性客のだみ声、タバコの成分が混入した濁った空気、それらに囲まれているわたし自身。 すべてはまるで現実感を伴っていなかった。 家でベッドにひとり仰向けになって寝ているときと、どのような違いがあるのかわからない。 こうして、いちおう現実の世界として目に映っているものと、テレビの画面とのあいだに、どのような違いがあるというのだろう。 わからない。 頭が鈍くなっている。 いつもそうだ。 この店にいるときには、いつもそうなる。 いや、店のなかだけではない。 この街がきっと、自分をおかしくさせているのだろう。 歌舞伎町。 昼夜問わず腐敗の悪臭を放ち、その毒気を帯びた気体が人々を狂わす街。あるいは、覚醒させる街。 そんなふうに思う。 そう、いまのわたしは覚醒しているのかもしれない、たんに誰もが、誤魔化されて生きている。 人生は無意味。幻と同じ。 そんな単純な事実を、いまのわたしはあっさり受け入れている。 それだけのことかもしれない。 「マミちゃん」男の声がした。 「マミちゃん、おい、どうかしたのか」 止まっていた時間がゆっくりと動きだした。 霧のように判然としなかった視界に、ゆっくり現実がとって代わっていく。 我にかえったとき、目の前に漂っているのは霧とは似て非なるものだった。 タバコの煙。 吐き気をもよおしそうなその悪臭。 いつもと変わらない、薄明かりのなかにうごめく人々の影。 誰が誰なのかははっきりとはわからない。 わかる必要もない。区別できるのは自分だけ。 あとは所詮、他人という括りでしかない。 その他人の影のなかで、最も近くにいるひとりが麻美の目の前に右手をつきだし、ぱちんと指を鳴らした。 「ほら、目が醒める。三、二、一。はい」隣りに座ったその褐色のスーツ姿の男は、前歯を剥きだしにして笑った。 「催眠かよ」もうひとり、麻美をはさんで反対側に座っているグレーのスーツがいっそうけたたましい笑い声をあげる。 褐色のスーツよりもいくらか年上で、体重のほうもキロ数にして同じぐらいは上回っていそうなその男は、猪首を絞りこんだきつそうなネクタイを緩めていった。 「マミちゃん、いちおうさ、俺たちゃ客なんだけどさ」 「ごめんなさいね、ぼうっとしちゃって」すかさず返されたその言葉は、自分の口から発せられたものではない 。麻美はぼんやりと、テーブルの向こう側で姿勢を正して座っている女を見やった。 ああ、キヨミか。そうだ、いまヘルプで同席しているのはキヨミだった。 まだ二十歳に満たない麻美とちがって、すでに二、三年前に成人式を済ませている。 店の経験もそれぐらい差がある。彼女が 麻美と異なっている点はそれだけではない。麻美は本名を源氏名にしているが、キヨミはちがう。 どんな名前だったろうか。たしかサではじまったはずだ。サ……なんといっただろう。サ……サ……。 いまは店内でキヨミという名の女が、険しい目つきで麻美を一瞥していた。 麻美がその視線の意味からなを察する暇もなく、キョミは空になった褐色のスーツのブランデーグラスを取りあげ、馴れた手つきで水割りをつくりはじめた。 本来は麻美がやらねばならない仕事だった。麻美はいった。 「あ、すみません」 「いいの」キヨミはやや大仰に思える笑顔を浮かべていった。 「おいおい、しっかりしてくれよ」褐色のスーツはソファに身をあずけ、タバコの箱に手を仲ばした。 今度は、キヨミより先に反応できた。麻美はすばやくライターをとりだした。 が、火がつかない。 何度か試してみて、ようやく気づいた。 ガスが切れている。そういえば、先週も切れていた。 補充しておこうとして、忘れていた。 カラオケが鳴り響く店内でも聞こえるぐらいのため息を漏らしながら、キヨミはデュポンのライターの火をつけ、褐色のスーツの口もとに差しだした。火が消えないように添える左手の角度も、空調の影響を受けないよう細心の注意が注がれている。 褐色のスーツは麻美をちらと見やって、まだ火のついていないタバコを放りだした。 「かんべんしてくれ。俺はきみを指名したんだぞ」 グレーのスーツも同調した。 「指名料とっておいて、仕事しないってのは給料泥棒だな」 「すみません」今度の謝罪のせりふも、キヨミのほうが早かった。 「マミちゃん、まだ慣れてないから……」 「六か月もいるんだろう?」褐色のスーツは赤い顔で怒りだした。 「いい加減に慣れろよ」 「どうも、すみませんでした」ようやく声を絞りだした。
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