いつの日か旅に出よう
著者
内田春菊/著
出版社
中央公論新社
定価
本体価格 1500円+税
第一刷発行
2003/07
ISBN 4-12-003399-6
 
不思議の世界へようこそ。奇妙な街で変わった人たちが織りなすおかしな毎日。最新長編ファンタジー。
 

不思議の世界へようこそ!奇妙な街の悪気なき人々が織りなすおかしくもはた迷惑な日々。中央公論新社ホームページで好評連載中!!



「これはこれはこれはこれはこれは」
むじゃき大王の声が街に響きわたる。
「十二時の時報だわ」
ベビーシッターさち子は誰にともなく声に出す。
どの家でもお昼ごはんが良いにおいをさせている頃だろう。
だけど私にはそんなもの作ってくれる人はいない。
だってベビーシッターだもの。
さっきからまかされた赤ん坊を抱いて家の中を歩きっぱなしだった。
やっと赤ん坊が眠ったので抱いたままソファで一緒に眠りこけてしまっていたところなのだ。
時報で起きてやっと気付いた。
お昼ごはんどころか、私のそばで良いにおいをさせているのは赤ん坊のおむつだ。
だからあんなに泣いていたんだ、ぜんぜん気付かなかった。
人がいないときで良かった。
誰かに見られていたら「おむつのよごれにも気が付かないベビーシッター」と言われてしまう。
赤ん坊はまだ眠っている。
起きるまではこのままでいいだろう、とソファに寝かせようとして、ベビi服のしみに気が付く。
おむつの汚れが漏れてしまったのだ。
「あーあ」
また仕事が増えてしまった。
どうしよう。
これあたしが洗濯しなきゃなんないのかしら?
ちっ、と舌打ちすると同時に赤ん坊が目を開けてしまった。
そうだった。
赤ん坊は高い音に反応するのだ。
みるみるうちに歪む赤ん坊の顔。
下がる口とまゆげの両端。
唇の間からもれるうめき声に、思わず口を手で押さえそうになり、また思いとどまる。大丈夫大丈夫。
さつきから窓締め切ってクーラーかけまくってたんだもの。
少しくらい泣いたって誰にも聞こえやしないわ。
開き直れば手早いもの。ぎゃあぎゃあ泣く赤ん坊に、「あーはいはい、すぐだからね〜」
と適当に声をかけながら、さっさとおむつを替え、さっさと服を着替えさせる。
汚れた服はとりあえず洗濯物置き場に置く。こうやって作業しているときは、自分でもほれぼれ。
「さあ、ひるご飯にでもしますか」
あたしの昼食はカップラーメン一個。さつきすぐ近くの店で買ったのだ。
お店のおばさんと、「あらまあ、こんなもんで体もつの?なんかあんた、最近やせてるけど」
「奥様はレストランでランチなんですけど、その間ベビーシッターはほとんど働き詰めなので……」
という会話をしながら。
冷蔵庫を開けて、ビールを一本いただく。
沢山あるから一本くらい大丈夫。酒くらい飲ましてもらわないと、この仕事、割に合わない。
あっという間に】本がなくなる。
少し考えて、もう一本を開ける。空き缶は他のと一緒にしておけば気付かれない。だってこんなに美味しいビールなんだもの。
あたしがいつも家で飲んでいる安物とは全然違うんだもの。大事な子どもをつきつきりで見てあげてるんだもの、あたしには飲ませてもらう権利があるわ。
また一本なくなる。
「かまうもんか、もう一本」
冷蔵庫を開けると、ピンポーン。
誰!?
「あの、あの、ミルキィショップです」
なんだ、牛乳屋かよ。ああ驚いた。
ここのうちではわざわざインターフォン使ってドアを開けてやんなきゃなんないような牛乳屋をお使いなのだ。
ちっ、めんどくさい。な
んでベビーシッターのあたしがそんなことまでしなきゃなんないのよ。
「こ、こんにちは」
「ああ、どうも」
「あ、暑いですねえ」
(本文P.11〜13 より引用)


このページの画像、引用は出版社、または著者のご了解を得ています.

当サイトが引用している著作物に対する著作権は、その製(創)作者・出版社に帰属します。
無断でコピー、転写、リンク等、一切をお断りします。

Copyright (C) 2001 books ruhe. All rights reserved.