死刑宣告
二〇〇二年一〇月一二日、俺は、人生最大の悲しみと恐怖に打ちのめされながら、女房と二歳の次女を助手席に乗せ、埼玉県立がんセンターから自宅へ向かっていた。
女房は、必死で俺に「大丈夫だから」の言葉を語尾に付けて話しかけてくる。しかし、その励ましだか慰めだかわからない言葉は、申し訳ないが何の意味も持たずに俺の耳を通過していった。ハンドルを握る手の感覚、フロントガラス越しに見える風景。それだけが、現実のものとして五感に入ってくる。
がんセンターを後にしてどのくらい走っただろうか。急に、目の前の風景に紗がかかった。だんだん景色が見えなくなる。霞む。霞みは瞬きするたびに強さを増す。そのうち、頬が濡れる感覚に気付いた。
――俺、泣いているんだろうか?
手で目頭を押さえればわかることだった。でも、その行為が女房や子供の手前、どうしてもできない。泣くなんて夫として親として、自分の美学が許さなかった。
必死に励まそうと言葉を掛ける女房の声からは、鳴咽に近いものが感じられた。見なくても泣いているのがわかる。見なくてもというのは、横を向けば自分が泣いていることを女房に悟られるからだ。
無理やり自分を抑え続けた。すると、自分の体にあるすべてのセンサーが狂い出してくる。
おかしな感覚だった。いま運転している車は日本車だから、助手席に座っている女房と子供は俺の左側にいる。それがなぜか、二人が右側に座っている感覚にとらわれてきたのだ。今思えばこれ、きっと女房の方を向きたくないという気持ちが強かったせいだと思う。
――もうダメだ。運転したくねえ。アクセルを踏み続けたくねえ。
心が叫んでいる。すると、さっきまで鳴咽に近い涙声を出していた女房から、子供を諭すようなやさしい声が聞こえてきた。その言葉だけはスーッと俺の心に入ってきた。女房は、俺のことを何から何までわかっていたようだ。
「パパ、休もう。ねえ、休もうよ。車止めて。朝から何も食べてないし、飲み物さえ飲んでいないのよ。パパ、どんなものでもいいから口に入れて落ち着こう、ね」
この言葉は操り人形の糸のように、俺の体を動かした。前を見ると、コンビニの大きな駐車場が見える。女房の言葉に誘導されるがままに、車を駐車場へ乗り入れた。
エンジンを切る。頭に上りきっていた血が徐々に下へ落ちていくのがわかった。冷静さが少しだけ自分の心に戻ってきてくれたようだ。
振り返る。嫌だけど今日の出来事を振り返る。
――たった数時間前までは、こんな気持ちじゃなかったよな、たしか。でも自分では、この時が来るのを、かなり前からわかっていたんじゃないか、俺は。
運転席のシートにもたれ、静かに目を閉じた。
脳裏には、数時間前のがんセンターでのやりとりが時空を越えて鮮明に蘇ってきた。
「高杢さん、お入りください」
感情がまったく感じられない無機質な声が、診察室の中から聞こえた。女房と子供を連れて中に入る。四〇代後半くらいだろうか、眼鏡をかけ、インテリジェンスを宿した目を持つ、ちょっと、とっつきにくい感じの医師がそこにいた。
「今から、ご家族のことや体の異変について聞いていきますからよろしく」
マニュアル通りの、この言葉から始まった。
田中外科部長だ。このがんセンターを紹介してくれた近所の開業医の高橋先生から名前は聞いている。そしてこれから始まるのが問診というものだということも、感覚的にわかっている。
自分の症状から話し、親父がガンを患ったこと、おふくろも患ったこと、そのほか家族の病歴まですべて話した。田中先生はずいぶん手慣れたもので、それを図解入りでカルテに記載していく。
ひと通りの質問が終わると、これも形式的なものだろうか、
「そこのベッドに横になってください。奥さんはこちらから呼ぶまで外でお待ちになってください」
と、田中先生は無表情で指示した。指示している間も、手はカルテや高橋先生からの紹介状、検査結果表をせわしなく行き来している。ある程度のところでそれに見切りをつけると、ゆったりとした足取りで俺の寝ている診察台まできた。
そして、腹に手を当てると、隅々まで触り始めた。何かを捜し出すような手つきで指先を動かしていく。
「ここは痛くはありませんか?」
と、ときおり尋ねるが、痛みはまるで感じない。ひと通り触り終えると、今度は、
「パンツを下ろして、横向きになってください」
と、言ってきた。
――高橋先生の所では胃カメラを飲んで胃の具合が悪いと言われただけだったのによぉ。なんで俺がパンツまで下ろさなきゃならないんだよ。
これには、多少抵抗があった。チェッカーズを解散した後も芸能人の端くれとして生きている俺にとっては、まったく関係ないシモの方まで見られるのはなんだか釈然としない。しかし、がんセンターの消化器外科部長が言うのだから何か意味があるのだろう。言われた通りのことをして、言われた通りの姿勢をとった。
田中先生は、いきなり肛門に指を入れてかき回し始めた。苦痛はなかったが、屈辱的な気分になったのは事実だ。
「はい、結構です。洋服を着てください。奥さんも診察室へ入ってもらってください」
あいかわらずの機械的な感じで指示をする。看護婦さんが女房と子供を呼び、診察室へと招き入れた。
田中先生は、もう机の前に座っていた。そして最後の確信を自分につけるためか、無言でカルテに何かを記載し、検査表に目を通している。女房は、知らない間に俺のすぐ後ろに子供を抱いて座っていた。診察室の中には沈黙の時間が流れる。静寂に飲み込まれたような空気になっていく。
一瞬、ここは裁判所なんじゃないかと錯覚を起こした。田中先生が裁判長で、俺は有罪か無罪か、刑を言い渡される被告人って感じだ。
田中先生は、女房が診察室に入ってきたのを確認すると、イスをクルリとこちらへ向けた。俺は、ゴクリと唾を飲む。後ろにいて見えないが、女房も緊張しているのが手に取るようにわかった。
ジッとこっちを見た田中先生は、明らかに作り笑いとわかる笑みを浮かべて切り出した。
「高杢さん、これは厄介な病気になってしまいましたね」
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