繋がれた明日
著者
真保裕一
出版社
朝日新聞社
定価
本体価格 1700円+税
第一刷発行
2003/05
ISBN 4-02-257838-6
 
あの夏の夜のことは忘れられない。一瞬を境に、人生が変わった。
 

この男は人殺しです……。仮釈放となった中道隆太を待ち受けていた悪意に満ちた中傷ビラ。いったい誰が何の目的で?孤独な犯人探しを始めた隆太の前に立ちはだかる“障壁”とは?“罪と罰”の意味を問うサスペンス巨編。週刊朝日好評連載。


あの夏の夜のことは忘れられない。
一瞬を境に、人生が変わった。
今も隆太は誓って言える。
殺すつもりはなかった、と。
ただ護身用に、あのナイフを持っていたにすぎない、と。
警官や裁判官は、残された結果しか見なかった。
真実と結果には大きな開きがあった。
いくら声を上げても、誰一人振り向いてくれなかった。
弁護士も。家族も。友人たちも。
世の中は結果がすべてなのだ、と知らされた。
あの夏の夜のことは忘れられない。
人いきれとヤニ臭い煙の中で、男の片頬にはっきりと笑みが浮かんだ。
相手を値踏みしたうえでの、見下しきった薄笑いだ。
目は口ほどにものを言う。
何か用かよ。俺に意見しようなんて度胸がいいじゃないか。
半笑いの口元から心の声が聞こえた。
酒場はほぼ満員だった。
昼間の暑さを引きずって、殺気立つような気配を抱えた客が多かった。
連日三十度を超える真夏日が続いていた。
「津吹ゆかり?ああ、チケット屋でバイトしてる、あの目の小さな女のことか」
また意味ありげに唇がゆがんだ。
隣でギネスをあおっていた髪の長いダチと、小賢しくも目を見かわした。
男は酒と自分に酔っていた。
人の話をまともに聞かず、鼻先で笑い飛ばした。
「彼女が迷惑してる」
「本当は嬉しがってるに決まってるだろ。カッコつけて、迷惑そうな顔してみせるのは女の得意技だからな」
下卑た笑いが鼓膜を打った。
男の目は笑っていない。
明らかに挑発していた。
「外へ出ないか。ここじゃ話ができない」
言った瞬間、男が音を立ててグラスを置いた。
安っぽいBGMが途切れて周囲の視線が集まった。
男がけらけらと笑い出した。
演技たっぷりに。
余裕ある態度を気取って。
「外へ出ろってよ。リキ入ってやがんの。あんな女のためにさ」
挑発の次は潮笑だ。
こんな薄っべらい男だから、いつまでも振られた女につきまとおうとする。
薄っぺらだから、人の意見なんか受け止められない。
のらりくらりと濡れ雑巾みたいに、他人へへばりついて嫌がらせの薄笑いを浮かべる。
性根が腐った男なのだ。
「俺を見つめる目がいつも潤んでるんだよな。きっと下のほうも潤ませてるな、あの女は」
「貴様」
襟元に伸ばしかけた手を払われた。
男のひじがカウンターのグラスを飛ばした。
ガラスの砕ける音が響いた。
また店に一瞬の静けさが満ちた。
「やだやだ、子供は。すぐ興奮するから」
「外へ出ろよ」
「おっかないねえ、女に血迷ったケツの青いガキは」
「いいから、出ろ」
男の袖口をつかんで引きずろうとした。
「離せよ、ガキが」
男が叫んで体を揺すった。
手が腕をたたいてきたが、離さなかった。
今度は体ごと突き飛ばされた。
よろめいたところが、ちょうどドアの前だった。
「声をかけた女に鼻も引っかけられず、その腹いせに嫌がらせかよ。どっちがガキだ」
「何だと……」
男が目を吊り上げた。
こういう輩は人前で罵ってやらないと、自分の愚かさがわからない。
「もう二度と彼女につきまとうな。おまえは相手にされてないんだよ。これ以上しつこくしたら、ただじゃおかない」
男の目が見開かれた。
唇を突き出したと思ったら、あごを引いて向かつてきた。
おい、待てよ。
隣にいたダチが薄笑いを消して呼び止めた。
男は見向きもしなかった。
ひと足先にドアを開けて階段を上がった。
大丈夫だ。
腕に白信はあった。
薄っぺらな男に負けはしない。
万一を考えて、ポケットにはナイフも忍ばせてある。
夏の薄暗い路地には饒えた臭いが立ちこめていた。
手を腰に当て、ナイフの感触を確かめた。
あんな野郎は返り討ちにしてくれる。
男が肩を怒らせ、階段を上がってきた。おい、相手にするな。
後ろにダチの声も続いていた。
「あんたの名前と住所は確かめてある。今度また彼女に近づこうとしたら」
(本文P.3〜5 より引用)


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