償いの椅子 
著者
沢木冬吾/著
出版社
角川書店
定価
本体価格 1900円+税
第一刷発行
2003/04
ISBN 4-04-873317-6
男は戻った。足跡を轍にかえて。友、そして自分を慕う姉弟のため、男の最後

その夜の銃弾は能見から友と、足を奪った。5年後、能見は街に戻った。友、そして自分を慕う姉弟のための最後の闘いが待っているから。大型冒険小説!


第一章

青の濃い空に、灰色の煙突が突き立っている。
その突端から流れ出る淡い煙が、清朗な空に霧散していく。
錦繍に包まれた小径を、能見亮司は進んでいった。
喪服の人々とすれ違う。みなの踏みしめる枯葉の快いさざめきが、耳をくすぐった。
玄関付近に喪服の男女がたむろしていた。幾人か、制服を着た者も。
玄関横のスロープに差しかかったとき、喪服の男が近寄ってきた。
「押そうか」
能見は首を振って断った。男は、親切を無下に断られても頓着した様子を見せない。能見をあからさまに観察するその目付きには、一興味以上のものが彦んでいた。
ハンドリムをしごき始めた。スロープはごく緩く、昇るのは楽だった。
自動ドアをくぐると、広い円形のホール。丸天井には三角の天窓。
そこから幾筋もの光が差し込み、床にまだらを作っている。
光線のただ中に車椅子を止めた。
左手にガラス戸で仕切られた焼き場があり、右手には待合室。
待合室の中は人が溢れていた。幾人かが、興味ありげな視線を送ってくる。
間に合わなかった。能見は焼き場に視線を投げ、軽く唇を噛んだ。
待合室から有働達子が出てきた。髪をひっつめにした色の白い小柄な婦人。戸口で立ち止まり、微かに頭を下げた。
能見は肘置きに置いた手で、そっと合図をした。
きてはいけない。
仕草の意味を理解した顔つきの彼女だが、近づいてきた。
「きて頂いてありがとう。あの人も喜んでいると思います」彼女はふっと笑みをこぼした。
「気にすることはありません。主人とあなたが友人だったのは、隠す必要もない事実でしょう」
ヘアカラーでブラウンに染め上げたと覚しき髪の毛が、艶やかに光る。気落ちは感じられず、静かな諦めを漂わせている。
「最後に一目、と思ってきたんですが…‥」
語尾を飲み込んだ。
中年の男が近づいてきて、達子の耳もとに口を寄せた。
男の曝きを受けた達子が言った。
「息子の裕輔です。こちらは、以前お父さんの部下だった能見さんよ」
彼はその説明を信じ、丁寧に足労の礼を述べて去っていった。
達子は能見の脚に視線を落としてから、問いを込めた視線を向けてきた。
能見は薄い笑みで諦観を表した。
「そう:…」達子の目が、ガラス戸の奥の焼き場に向かった。
「どっちだと思うP主人は五年前には死んでいたのか、ついこの間死んだのか」
「あなたが決めてください」
「そんなことばかり考えてしまって。なんの意味もないのにね……」何かを振り払って能見を見た。
「さ、お酒を飲んでいってください。押しましょう」
背後に回りかけた達子を、能見はやんわり制した。
「結構です。もう失礼します」
「三年振りに会ったというのに。ゆっくりしていらっしゃい」
「幾つか所用があるので」
「どんな?」
「昔馴染みに会います」
「ほかには?」
小さな光の粒が目の前に漂ってきた。
能見は銀色に輝く小さな羽虫を、優しく吹き飛ばした。
それだけP達子の声が降ってくる。能見は達子を見上げた。
天から差す光を背に、達子は浮かび上がって見えた。
光に目が眩み、視線を逸らした。
「奥さんにはほんとうにお世話になった。ありがとうございました」
「確かに、お世話しました」
二人は優く笑った。図ったわけでなく、二人の視線は同時に焼き場へ向かう。
笑みはゆっくりと消えていった。
能見は訊いた。これからどうするんですか。
達子は、大阪に暮らす息子夫婦と同居することになった、と語った。
「能見さんはこれから?」
「さっきも言いました」
一瞬、二人の視線が合った。能見は視線を外した。
「死ぬまで生きていければ満足です」
「お金は?」
「蓄えが少し」
能見は焼き場へ向かって手を合わせ、黙薦を捧げた。
祈りを済ませ、達子と改めて向かい合った。
「失礼します。今までありがとうございました」
能見は頭を下げた。
「でももうすぐお骨が」
頭を上げた能見は、達子の背後、壁に背を預けている男と目が合った。
五十がらみ、地黒で眼鏡をかけた恰幅のいい男。
男は眉を微かに上げ、問いを放った。
能見はほんの僅か、首を振った。
達子が二人の視線に気づいた。「森田先生ともお話ししなさいな。久しぶりでしょう」
「縁の切れた男です」
達子が森田と呼んだ男は、ポケットにかけていた手の人差し指をゆっくりと振った。
能見は車椅子の肘置きを撫でるような仕草で、礼を返した。
一瞬、森田の視線に力がこもった。
いけよ早く。能見はそっと顎を振った。
森田は再び微かに目礼し、待合室の奥へ消えた。
「能見さん、お骨拾いをぜひ」
「いや、ここで」
「そうですか……」
達子は能見の前にしゃがみ、手を差し出した。能見はその痩せた手を握った。
「お元片丸で」
「あなたも」
ほんとうにここでいい。能見は達子の介助の申し出を断り、体を反転させた。
「能見さん」

 

(本文P.3〜5 より引用)


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