|

観察と感察
東京のマンションに二泊三日、週の残りを伊豆の自宅という生活を、もう二十二年もつ、づけている。
クルマは秘書が運転する。
ぼくは、運転者と同じ目線でなければ厭なので、助手席に乗る。
時には、秘書と同じようにブレーキを踏んでいることもある。
伊豆と東京は平均で二時間三十分、しかし、十年も前、バブルに沸き立っていた頃には三時間かかり、バブル崩壊直後には二時間十分になった。
このようにクルマで移動しているだけでも、時代や社会のある側面は見えるのである。
ぼくは、ずいぶんたくさんの歌の詞を書いた。
もちろん、小説もその他の種類の文章も山程書いて来ているが、やっぱり歌の詞を三十年もつづけて書いたことは自分自身にとってかなり重要なので、それを特長とすると、ささやかな観察としたたかな感察──こんな言葉はないがが基本になっている気がする。
時代とか社会といった外圧にさらされながら、人間が主役であるために身悶えしているのが歌だと、ぼくは思っているから、観察しなければならないし、感察に置き換えなければならないのである。
政治とか経済とか歴史とか、グロスで語られるものばかりで構築されると、人間は痩せてしまう。
この巨大なものに対するのに、人間のパフォーマンスはせいぜいが、しぐさであり、表情であり、近頃稀薄になって来たが言葉であり、というのは如何にも心細いが、しかし、人間とはそういうものである。
その範囲のものをもっと大切にした方がいい。
大上段に振りかぶり、大音声を発する人は強そうで偉そうだが、実は、それを横で涼しい顔をして見ている人の方がずっと強いということもある。
ただし、この涼しいというのが難しいところで、涼しければいいが、不感だと意味をなさない。
困ったことに、この両者は相似である。
さて、現在は不景気なのか、年度末の道路工事期を除いては、大体二時間十分で東京へ着く。
もちろん、道中はクルマの窓から、涼しい顔で観察している。
そして、時には、次のような詩を読んだりする。
空缶の唄
危険な危険な高速道路の
ガードレールのポールの上に
誰が置いたのか
現代の道祖神だとでもいいたげに
賓の河原の石積であるかのように
宇宙人との交信のアンテナに思わせて
空缶が置かれている
ゴミ籠に捨てれば楽で
家に持ち帰れば
さらに公徳心も称えられるだろうに
あえてあえて
疾走するクルマの間隙を縫い
息を切らせ
安定の悪いポールの上に
空缶を置いて来るのは
如何なる人の
如何なる暗い情熱か
それがわからなければ
現代人はわからない
何かつもりがあるのだろう。
祈りとか、シグナルとか思うのは作家の悪癖かもしれないが、何気ない自然な行為とは思い難い。
空缶が飾られてあるのは道路ばかりではなく、公衆電話の上にわざわざ置いていくのがいる。
横を見ると、ゴミ籠があるのにである。
とすると、意識か無意識かはわからないが、つもりというやつが働いているのであろう。
それを辿るのは、ミクロの決死圏ほどの人間内部の探検が必要になる。
また高速道路で考える。
日本人が自分に非があった時に、「ごめんなさい」と云わなくなったのはいつからだろうかと。
かつては、肩がポンとぶつかっただけでも、「ごめんなさい」と云い、時には、明らかに被害者の立場の人が、「私がぼんやりしていたばっかりに」などと云って、加害者を恐縮させたものである。
|