惜春
著者
花村万月/著
出版社
講談社
定価
本体価格 1600円+税
第一刷発行
2003/04
ISBN 4-06-211832-7
僕は正真正銘の、二十歳の童貞である。ソープの見習いボーイ、過酷で長閑な青春。70年代中頃、歌舞伎町のキャッチバーのバーテン・佐山は、騙されて雄琴温泉で働くことになる。


新宿のキャッチバーを辞め、騙されてタコ部屋暮らしを始めた。
いまある現実をそのまま受け入れよう。
旅人の寂しさにつつみこまれて眠りにおちた。
ヒッピーもベトナム戦争も終わってなにもない’70年代、
僕は正真正銘、20歳の童貞である。

十代後半に京都に住んでいて無為徒食の日々を過ごしていた私にとって雄琴の風景は、そしてそこに棲息する人々の息遣いは、肌にじかに染みいってくるようで、なにやら微妙な悲しみの感情を覚えた記憶がある。――(花村萬月)

 

白い花

定職には就いていない。
適当にアルバイトをして─しのいでいる。
自称自由人といったところだ。
しかし僕が高校三年のころに起きたオイルショックと共にヒッピーやフーテンの時代は終わってしまった。
あのとき僕は、トイレットペーパーを買い漁る人たちを軽蔑の眼差しで見つめつつも、どこか他人事だった。
そんなもので僕の自由は揺るがないと信じこんでいたのかもしれない。
しかし作為的な石油不足と足並みを揃えるようにして白由とやらはあっさりと消え去ってしまった。
しかも今年の四月未にはベトナムの戦争も終わって、平和云々というお題目もなんとなく現実味を喪ってしまい、残ったのはインフレと不況だった。
歴史が好きだったので文学部に進みたかったが、いまでは進学する意欲も失せ、高校在学中から中途半端に伸ばしていた髪も切ってしまい、不安を覚えるほどではないが微妙に宙ぶらりんだ。
現在は知り合いの紹介で新宿歌舞伎町のキャッチバーでバーテンの真似事をしている。僕はキャッチバーという言葉さえ知らなかった世間知らずで、建設関係や製造業のアルバイトばかりしてきたので最初はバーテンの仕事と言われて緊張したが、高額の時給に負けた。
はじめて店に顔をだしたときには、店内のあまりの暗さに驚いた。
長閑な僕が非合法すれすれの商売だということを理解したのは、働きはじめて数日たってからのことだった。
マネージャーが支払いを渋る客を極端に丁寧な言葉遣いで脅しているのを目撃したからだ。
お客さんは百合さんという店でいちばん縞麗なホステスさんに路上でキャッチされて地下の店に連れ込まれた。
連れ込んだ百合さんは即座に地上に取ってかえし、ふたたび客引きである。
お客さんは不服そうな顔をして十人並み、いや百人並みの二人のホステスさんを相手に柿の種を肴にビールを一本飲んだだけだった。
明細を突きつけられて、いったんは支払いを拒否したお客さんだったが、結局は目に涙をため、うなだれて、財布のなかの全てのお金である五万円ほどを支払って、さらに運転免許証を奪われて解放された。
立ち去り際に電車賃と称して恩着せがましく小銭だけもどされた。
さらに、お客さんの耳許にマネージャーが顔をぴたりと寄せた。耳朶を櫟るような調子で、なんとも甘い声で、あなたにも仕事があるだろうから免許は紛失届をだして新しくしてもらえと助言した。
住所と本籍を押さえられては、お客さんもなにもできないだろう。
これは犯罪だ。
愕然とした僕は知り合いを問いつめた。
彼は、縁故関係から断りきれずにこのようなやくざな商売に足を踏み入れてしまったんだ、と釈明したが、その後がまにまったく無関係な僕を据えるのもどうかと思った。
それでも九月の終わりからアルバイトをはじめて二月ばかりがたった。
当然ながらバーテンの経験はないが、カクテルの注文があるわけでもない。
だから仕事は単純だ。
見様見真似でこなせてしまう。
自分でいうのもおかしいが、人間という生き物は悪いほうにはすぐに馴染むというか、慣れるものだ。
鼻の下を長くしてだまされるお客さんのほうが悪いんだと考えている自分に気付いて、べつの意味で愕然とすることがある。
いまでもやめていった先輩の垢が首筋に染みついた嚥脂色をしたチョッキに白いワイシャツ、そして蝶ネクタイという水っぽい格好には抵抗がないでもないが、ときどき店にやってくる、どちらかというと裏側の世界に属するお客さんと言葉を交わすのは愉しいことだ。
お客さんと僕のあいだにはうまい具合にカウンターがあって、そのおかげなのだろう、本当はとても怖い方だという噂の人物であっても、意外と冗談まじりの軽い口調で遣り取りができてしまう。
僕は店の人にもお客さんにも可愛がられているほうだと思う。
もっとも、ついこのあいだのことだ。
マネージャーが料金の支払いを渋る客の腹ばかりを殴りつけて途轍もない代金を抜き取ったのを目撃したときには、さすがに不安になってしまった。
あらためて言うまでもないが、店に馴染みの裏側の人と、キャッチのお姐さんにだまされて店に連れ込まれてしまったお客さんとでは完全な別料金制になっているのだ。
客は更衣室の床に転がって黄色い粘りけのある液体を吐き散らしてのたうちまわっていた。
あとでその酸っぱい液体を掃除させられたのは、この僕だ。

(本文P.5〜7より引用)

 


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