拉致被害者の兄であり、「『北朝鮮による拉致』被害者家族連絡会」事務局長をつとめる著者が、拉致という最悪の国家犯罪との24年間にも及ぶ闘いについて、語り尽くしています。さらに本書では、いままで語られてこなかった、弟の薫さん帰国後の混乱や、北朝鮮による“洗脳”を解くための闘いについても生々しく語られています。「北朝鮮拉致」の実態と、その被害者の現実を知るために貴重な一冊です。
二〇〇二年十月十五日午後二時過ぎ、羽田空港内貴賓室 ── 。 晴れわたり、雲ひとつない空。 一機、二機、三機。 目の前を飛行機が通り過ぎて行きましたが、どれに弟たちが乗っているのか、私には分かりませんでした。 私の目は、弟たちが降りてくるはずのタラップに釘づけになっていました。 私たち北朝鮮によって拉致された被害者の家族がいる貴賓室では、「来た、来た」 「あれに乗っているんだ」 などと声があがっていたそうですが、それさえ聞えない状態だったのです。 ──薫が完全に朝鮮人になってしまっていたら、どう対応すればいいのだろう。 十月九日に弟を含む拉致被害者五人の帰国が決定してからというもの、貴賓室に入る直前まで目まぐるしく準備に追われた私の頭の中には常にその思いが渦巻いていま した。 何機目の飛行機かは覚えていません。 突然、目の前に機体に日の丸の描かれた全日空機が止まり、タラップがつけられました。 そして、係員が重いドアを鈍い音と共に開けたその瞬間、私の胸は激しく高鳴り始めました。 私は人生の中で一度も経験したことのない荘然とした浮遊感の中、タラップを登っていく安倍晋三官房副長官の背中をただただ見つめていました。 そして一。 懐かしいあの顔が目に飛び込んできました。 薫と妻の祐木子(旧姓奥土)が腕を組みながら、一歩一歩私たちに近づいてきます。 「薫!」 タラップを降りた薫に、両親よりも先に叔母が駆け寄って行ってしまったのですが、続いて、父・秀量と母・ハツイも夢にまで見た薫との再会を果たしました。 「よく帰ってきた」 それだけ言うのが精一杯で、あとは言葉にならない両親。 母の涙に胸が締めつけられました。 父も顔をぐちゃぐちゃにして、人目もはばからずに涙を流しています。 この両親の涙を見て、私は二十四年間待ち続けてきた実の弟との再会を実感することができたのです。 年老いた両親と薫が抱き合っている姿を見ているうちに、自然に涙がこみ上げてきました。 飛行機の周りには拉致被害者家族や救う会のメンバー、拉致議連の議員など五十名ほどがいましたが、みんな興奮の渦に飲み込まれています。 私はこの時を一瞬でも見逃してはいけない、目に焼きつけなければ、と思っていたのですが、ふと薫の姿を見失ってしまいました。 遂に帰国した弟の姿を目にすることができた感激に浸りながらも、二十四年という気の遠くなるような時間を、あの北朝鮮で生き抜いてきた薫が"洗脳"されていたらどうしようという危倶も拭い去れず、私の心が動揺していたことは確かです。 その動揺と同時に、私の脳裏にはすぐさま、”帰ってきた五人を冷静に観察しなければならない”という思いが浮かび上がってきたのを覚えています。 「薫。よく帰ってきたな。お帰り」 どうにか薫のもとにたどり着いた私は、万感の思いを込めて語りかけました。 「おう、兄貴。帰ってきたよ」 と、薫。 「元気だったか」 「兄貴も元気だったか」 二十四年ぶりの弟がそこにいました。 抱き合った時には、事前に政府の調査団によって撮影されたビデオで見た姿よりは少しふっくらしているかなと思いました。 しかし、改めてよく見ると、かつての薫とは似ても似つかない表情をしています。 目はくぼみ、頬はこけ、髪の毛をポマードで七三に分けている、痩せた中年の男。 そして胸には、ビデオでも見た北朝鮮のバッジ。 それが、私の目に映った我が弟でした。 薫に会えた感激で胸が詰まりそうなのに、挨拶の後、私の口から真っ先に出たのは、 「そんなに痩せてて、お前、どこか悪いんじゃないの」という無愛想な言葉でした。 「胃下垂なんだよ」と薫が答えたのは覚えています。 しかし、まだ目の前に弟がいる口 という現実を私の中で消化しきれてはいませんでした。 ──知りたいのは、お前がどういう人間になっているかなんだ! ビデオやテープの中で、北朝鮮の代弁者のように話していると感じていたこともあって、間違いなく昔のままの薫ではないだろうという不安を抱いていました。 また、冷たいと思われるかもしれませんが、薫の外見があまりに変わっていたため、素直に二十四年ぶりに会えて良かったという気持ちが持てなかったことも事実です。 それでも私は、早く薫と会話を交わしたい一心で、「見ろ、このカメラ。日本中が見てるんだぞ」 そう語りかけました。 しかし薫は緊張していたのか、あまり表情を変えずに取り囲むカメラを見回して、 「ああ」 としか答えませんでした。
”(薫の帰国が)怖い” それは、帰国が決定してからずっと思い続けていたことでした。
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