ビートルズが来日した年、僕は童貞を失った――。母親との確執を抱え、上京し高校に通う僕は街で遊んでいた。漂うような日々を通り過ぎていった女たち、そして運命的な出会い。初の自伝的恋愛小説。
第一章 童貞を失った年
スカイダイバーを主人公にした連続テレビドラマがあった。 そのドラマを観ながら、時々、パラシュートが開かないことを夢想した。 地上何千メートルのところから、地面に叩きつけられるのだから、頭蓋骨はこっぱ微塵。肉だって飛び散ってしまうだろう。 空中で躰を大の字に拡げて降下しているダイバーが、僕自身だったら、と思うと爽快な気分がした。 死んでしまいたい。 その頃も、そう思うことが時折あった。 それはふわりとした取り留めない思いだったけれど、影のように僕につきまとって離れなかった。 僕が童貞を失った年、銀座にソニービルが建ち、何千というブラウン管が設置された外壁が話題を呼んだ。 来日したビートルズが武道館で公演したのは同じ年の夏のことである。 日本は今ほど豊かでも、快適でもなかった。 難しい顔をした人も少なくなかった。 だが、みんな幸せだったような気がする。 とどのつまり、僕が欲しがっていたものも、砂糖菓子のように甘ったるい幸せだったのかもしれない。 今はもう砂糖菓子なんて、甘すぎて誰も食べない。 糖分はとりすぎると飽きる、と誰かが言っていた。 僕が童貞を失うきっかけを与えてくれたのが誰だったのか、名前が浮かんでこない。 だけど、どこで知り合ったかは覚えている。 新宿にあったゴーゴi喫茶だった。ゴーゴー喫茶と言ってもピンとこない人が多いだろうが、要するにクラブとかディスコと同じようなものである。 その人は大学生だった。私立大の名前を口にしていたが、学校名も思いだせない。態度の大きな人だったが、どことなく坊ちゃん臭く、ひ弱な感じがしないでもなかった。 あの頃、随分親しかったのに、いつ疎遠になったのかも記憶にない。 そのときは必要不可欠でも、一生穿き続けるはずのないパンツのように、付き合わなくなった途端、忘れてしまう人もいるものだ。 そんな言い方は人間に対してとても失礼である。不遜である。 だけど、煙草を吸いたいのにライターがないときを考えてみてほしい。 そんなときに、偶然マッチを道で拾うことができたら、ありがたくて涙が出るだろう。 そんな人間が僕の前を何十人、何百人と通り過ぎていった、というわけだ。 彼は、道ばたで拾ったマッチのような存在だったのかもしれないけれど、僕の運命を左右した人物のひとりと言ってもいい。 彼との付き合いがなければ、あんなにすんなりと童貞を失うことができなかったかもしれないのだから。 その年、僕は十六歳。東京に出てきたばかりの高校一年生だった。 そんな青二才を、彼は、大人の遊び場へ連れていってくれた。 恩人の名前を、仮に山田太郎とでもしておこう。 いや、それではあまりにも安易である。 どんな名前が適しているか……。 そうだ、猪木太郎の方がずっといい。 それは十二月初旬の底冷えのする夜のことだった。 猪木太郎と六本木の交差点にあるマイアミという喫茶店で待ち合わせた。 午後九時を回っていた時刻だったと思う。 それまでどこで何をしていたのかは記憶にないけれど、僕はグレーのスーツに、ボタンダウンのシャツを着ていた。 それに黒いニット・タイを締めていた。 靴はスリッポン。 高校一年生は補導されることを恐れていた。大人っぽくて地味な服装は、夜の街を俳個するときの制服だった。 一方、その年、二十歳になった猪木太郎は、昭和二十一(一九四六)年生まれ。 戌年である。 僕は、繁華街に足を踏み入れる前、必ず、彼の生まれた年と干支を復唱した。 大学の名前と学部も頭に叩き込んでおいた。 僕と猪木太郎は、マイアミで女の子たちを待っていた。 猪木太郎が、どこぞで引っかけた女の子たちと会うから来ないか、と誘ってくれたのである。 当時はナンパという言い方はなかった。引っかける、というのが普通だった。 猪木太郎が引っかけた女の子たちは、約束の時間をすぎてもこなかった。 胃もたれするほどコーヒーを飲んだけれど現れない。 猪木太郎は苛立って、頬を何度も引きつらせていた。 灰皿は吸いがらでいっぱいだった。 「どうしたのかな。すげえ乗り気だったんだけど」 言い訳がましいことを言いながらも、出入口の方にばかり目をやっていた。 慰めの言葉を仕いたら、却って先輩を侮辱することになりそうな気がして、僕は余計なことは言わずに、覚えたての煙草をふかしていた。 待つこと一時間以上、女の子たちはついに現れなかった。
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