九月の四分の一
著者
大崎善生/著
出版社
新潮社
定価
本体価格 1300円+税
第一刷発行
2003/04
ISBN 4-10-459401-6
 
いまならわかるような気がする。あれは恋としか名付けようがなく、僕らはどこへ向かおうとしていたのかが―。ほろ苦く、切ない「僕」の四つの物語。
 

“世界一美しい”と言われる石畳の広場でひとり途方にくれていた。逃れるようにして辿り着いた場所で君と出会った。失ったはずの大切なものを僕は取り戻し、君はあいまいな約束を残して、追われるように姿を消した…。表題作ほか三篇。失われたときの痛みとぬくもり心のゆらぎを紡ぐ著者初の短篇集。



大崎善生 (おおさき・よしお)

1957年生まれ。2000年、『聖の青春』で第13回新潮学芸賞、2001年、『将棋の子』で第23回講談社ノンフィクション賞、初めての小説『パイロットフィッシュ』で第23回吉川英治文学新人賞を受賞。著書に『アジアンタムブルー』、『編集者T君の謎―将棋業界のゆかいな人びと』がある。


この電車に乗るのは三度目のことだった。
彫刻美術館駅を出発した三両編成の小さな赤い電車は、中級者のジョギング程度のスピードでノロノロと坂を下って行く。
ときどき車両全体を軋ませて悲鳴のような金切り声を上げ、それでも健気に一歩二歩を積み重ねながら坂を下りて行く。
電車の中は平和そのもので、子供連れの家族や何組かの老夫婦たちがのんびりと窓外に広がる緑に目を凝らしている。
行楽帰りの人々の表情はどれもが明るく、リラックスしていた。
順調に坂を下り続けた電車は、鉄橋を渡りしばらくした山の中腹で停車した。
スイッチバックである。
一番後方の車両にいた車掌が電車を降りて、のんびりとした足取りで木製のホームの上を歩き出す。
先頭の車両からは運転手が降りてきて、最後方の車両に向かう。これから電車は今までとは逆側を先頭にして走り出すのである。
二人とも運転手にしておけば、いちいち入れ替わる必要もないし、時間と労力の節約になるのに、と僕はその光景を眺めながらぼんやりとそんなことを考えていた。
僕が初めてこの電車に乗ったのは確か今から七年前のことだった。
世の中は空前のバブル景気に沸きあがり、経済評論家や政治家たちはいかにして土地やマンションの価格を引き下げるかを口から泡を飛ばしながら討論していた。
有り余るジャパンマネーは国内の土地を漁りつくし、海外の不動産の買占めに奔走していた。
この勢いではこの国が世界中の土地やビルの大家になる日もそう遠くはないと、誰もが思っていた。
今ではとても信じられないが本当にそんな時代があったのである。
あのときは武井亮一と二人でこの電車に乗り、今と少しも変わらない光景を眺めていた。
景気や社会情勢が大きく変わったとしても、この登山電車やそこから目に映る風景はほとんど何も変わることはない。
電車はスイッチバックを繰り返すばかりだし、車掌と運転手の交代はイスラムの儀式のように厳粛に続けられている。
とにかく、七年前に僕は初めてこの電車に乗った。
武井の恋人であり僕の数少ない友人でもある中山頼子の就職が決まり、その職場を二人で訪ねるためだった。
札幌出身で高校の同級生だった武井と僕は、仲良く一浪して札幌の予備校に通い、翌年東京の同じ大学に進学した。
東京に馴染みのない二人は申し合わせて、沼袋の歩いて三分ほど離れた場所にそれぞれのアパートを借りた。
武井と僕の親は相談して、二人の仕送り日を月初めと半ばに設定した。
そうすれば月末でもどちらかには最悪食うに困らないだけの金が手元に残っているだろうという読みと、二人が同時に仕送りを手にして浮かれて遊び回ることができないようにという警戒心というか、切ない親心だったのだと思う。
武井はジャズと漫画が好きだったし、僕はブリティッシュ・ロックとSFが好きだった。
二人は毎日のようにお互いのアパートに泊まりあい、お互いのレコードを聴き蔵書を読み漁った。
おかげで僕はそれまでほとんど聴いたことがなかった、スイングから始まるジャズについて随分詳しくなったし、手塚治虫の漫画はほとんど全作品を読み尽くした。
酒と煙草の味を覚え、二人で世の中のありとあらゆることについて果てることもなく語りあった。どちらの部屋も自由に行き来できるようにと、恋人でもないのにいつからか合鍵を作って持つようになっていた。
大学一年の夏休みが終わった頃、武井が大学でちょっと風変わりなサークルを見つけてきた。
チェスの研究会である。といってもチェスそのものを本格的に勉強するというものではなくて、チェスというゲームをとっかかりにして欧米文化を研究していこうというような趣旨の集まりで、武井は強い関心を示しそのサークルに入会した。
僕は何となく照れくさくて正式な会員にはならなかったけれど、いつも部室に顔を出す常連のような立場になった。

(本文P.7〜9 より引用)


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