塩一トンの読書
著者
須賀 敦子
出版社
河出書房新社
定価
本体価格 1200円+税
第一刷発行
2003/04
ISBN 4-309-01542-5
「一トンの塩をともに舐めたかのように」、須賀にとってかけがえのない友人となった書物たち。そしてインスピレーションを与えつづけた作家たち。極上のエッセイ33編。

インド夜想曲」「細雪」「縛り首の丘」「プラートの商人」「ジェラール・フィリップ」「夏少女・きけ、わだつみの声」など、人生のいくつかの場面で途方に暮れて立ちつくしたとき、私を支えてくれた好きな本たちと好きな作家たち・・・。

塩一トンの読書

「ひとりの人を理解するまでには、すくなくも、一トンの塩をいっしょに
舐めなければだめなのよ」
ミラノで結婚してまもないころ、これといった深い考えもなく夫と知人のうわさをしていた私にむかって、姑がいきなりこんなことをいった。
とっさに瞼えの意味がわからなくてきょとんとした私に、姑は、自分も若いころ姑から聞いたのだといって、こう説明してくれた。
一トンの塩をいっしょに舐めるっていうのはね、うれしいことや、かなしいことを、いろいろといっしょに経験するという意味なのよ。
塩なんてたくさん使うものではないから、一トンというのはたいへんな量でしょう。
それを舐めつくすには、長い長い時間がかかる。
まあいってみれば、気が遠くなるほど長いことつきあっても、人間はなかなか理解しつくせないものだって、そんなことをいうのではないかしら。
他愛ないうわさ話のさいちゅうに、姑がまじめな顔をしてこんな喩えを
持ち出したものだから、新婚の日々をうわの空で暮らしていた私たちのことを、人生って、そんな生易しいものじゃないんだよ、とやんわり釘をさされたのかと、そのときはひやりとしたが、月日が経つうちに、彼女がこの喩えを、折に触れ、ときには微妙にニュアンスをずらせて用いることに気づいた。
塩をいっしょに舐める、というのが、苦労をともにする、という意味で「塩」が強調されることもあり、はじめて聞いたときのように、「一トンの」という塩の量が、癒えのポイントになったりした。
文学で古典といわれる作品を読んでいて、ふと、いまでもこの塩の話を思い出すことがある。この場合、相手は書物で、人間ではないのだから、「塩をいっしょに舐める」というのもちょっとおかしいのだけれど、すみからすみまで理解しつくすことの難しさにおいてなら、本、とくに古典とのつきあいは、人間どうしの関係に似ているかもしれない。読むたびに、それまで気がつかなかった、あたらしい面がそういった本にはかくされていて、ああこんなことが書いてあったのか、と新鮮なおどろきに出会いつづける。
長いことつきあっている人でも、なにかの拍子に、あっと思うようなこ
とがあって衝撃をうけるように、古典には、目に見えない無数の襲が隠さ
れていて、読み返すたびに、それまで見えなかった襲がふいに見えてくる
ことがある。しかも、一トンの塩とおなじで、その襲は、相手を理解した
いと思いつづける人間にだけ、ほんの少しずつ、開かれる。イタリアの作
家カルヴィーノは、こんなふうに書いている。
「古典とは、その本についてあまりいろいろ人から聞いたので、すっかり
知っているつもりになっていながら、いざ自分で読んでみると、これこそ
は、あたらしい、予想を上まわる、かつてだれも書いたことのない作品と
思える、そんな書物のことだ」

(本文P9〜11より引用)

 
 


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