オキーフの恋人オズワルドの追憶 下
著者
辻仁成/著
出版社
小学館
定価
本体価格 1600円+税
第一刷発行
2003/04
ISBN 4-09-342353-9
今度の戦争はね、正義と正義が殺し合う戦いよ

青年編集者をめぐる現実の物語「オキーフの恋人」と、登場人物であるミステリー作家の描く凄惨な連続殺人事件「オズワルドの追憶」。ふたつの物語は交錯し、思いもかけない結末でひとつになる。ジャンルやスタイルを軽々と飛越えて、時代に挑むような視線の辻仁成がいる!

オキーフの恋人

26

ぼくは榛名潤子の治療室にいた。
けれども目の前にいるのは榛名潤子ではなく、小さなペニスを持った少女のオキーフだった。
インナーチャイルドはにやにやと勝ち誇った笑みを、その小さな顎先に浮かべては、ぼくをじろじろと見つめている。
「虐待されてたことを思い出したのね」
小さなオキーフはそう言った。ぼくの肉体は硬直し、歯が音をたて、それを隠そうとしては全身に動揺が広がり、身体までが震える始末だった。
「そんな事実はない」
「じゃあ、なんで震えているのかしらね?思い出したんでしょう。心の底に埋め込んでいた過去を思い出してしまい、恐怖に引き璽っているんだ、キャハ、当たり」
インナーチャイルドは汚らしい笑い声を発した。
ぼくは起き上がろうとしたが、身体は椅子にベルトで固定されており、力を込めるが動けない。
「じゃあ、ヒントを出そうかなあ?」
「なんのヒントだ」
「ヒントその一、シンイチロウは榛名潤子を今すぐに犯したいと思っている」
「しつこい。そんなことはないよ。それにそれはヒントじゃない」
「ヒントその二、目が不自由なことを利用して虐待をしようとしている」
ぼくは必死でもがいた。
ベルトがきつく巻き付けられており、身体が言うことを聞かない。
「どうだ、やっと気がついたかい?偽善者ぶっているが、お前はそういう人間だ。
自分がかつてそうされたように、榛名潤子も汚したいんだ」
「うるさい!消えろ」
キャハハハ、と憎たらしいことにインナーチャイルドは笑った。
目が覚めるとぼくは砂漠の家にいた。ドアも窓も開け放たれており、そこには老画家はいなかった。
揺り椅子で午睡をしてしまったのだ。嫌な夢を見ていたはずだったが、それがどんな夢か思い出せなかった。
背後でがさがさと音がしたので振り返ると、鼠だった。
小さな鼠が壁の穴から顔を出し、ぼくと目が合うとすっとどこかへ姿を消した。砂挨が室内にも吹き込み、細かい塵が目に入った。
慌てて目を擦り、揺り椅子から起き上がると、何かが足りない、何かが失われている、いつもの室内を子細に見回した。
眩い光が差し込み、力ーテンが風で揺れている。
飲みかけのカナダドライがテーブルの上に置いてあった。
ほんの少し前まで、そこに老女のオキーフがいたことを物語っている。ぽくが寝ていると分かって仕事をしに作業場へと戻ったのだろうか。
強い風が吹き込み、本が捲れた。本の捲れるカサ、カサという音が弾けた。
「オキーフさん。どこにいる?」
声を出して彼女を呼んだ。返事はない。
気だるい空気が室内に充満している。
寝汗を拭い、玄関から外に出ると、砂漠に向かって、オキーフ、と呼んだ。
「オキーフ!」
ぼくの声がゴーストランチの山に擾ね返り、一帯に研する。
砂嵐が起こり、目を開けていられなくなった。
腕で目を隠し、砂嵐が通過するのを待ってから、建物の周囲を探した。
日差しがきつく、眩しい。サンタフェヘと通じる道の先に、鹿らしき動物の姿があるが、それはじっと動かずこちらを見つめ、警戒している。
「オキーフさん!」
いっそう大きな声で彼女の名を呼んだ。
鹿は驚き、顔を数度振り上げた後、陽炎の中へと姿を消した。
「オキーフさん、どこにいるの?」
太陽の光は垂直に差し込んでいる。
サボテンたちが無言でぼくを見つめていた。
碧空を人形の雲の塊が静かに漂っていく。
生き物が死ぬと雲になって天空へと登って行くのよ、とオキーフが語っていたことを思い出し、どきりとした。
人の横顔のような雲である。
オキーフに似ている。
転がっている動物の頭蓋骨は、目の部分が剖り貫かれたように暗い穴になっており、失われた眼球にぼくは見つめられていた。
ガレージヘと走った。トタンで出来た引き戸を開けて中を覗き込んでみる。
「オキーフさん!」
返事はなかった。描きかけの絵が壁に立て掛けられていた。
まだカンバスは濡れている。
つい今し方まで彼女がここにいた痕跡があった。
いつかはそういう時が来ることをぼくは知っていた。
人間には誰しも必ずそういう別れの日はやってくるものだが、ついにその日がやってきたのだ。
前々から分かっていたことではあっても、実際にこうして独り取り残されてみると、想像を超えて、寂しい。
戸口の傍に、馨水が塗られたばかりの、まだ何も描かれていないカンバスがあった。

 

 
 


このページの画像、引用は出版社、または著者のご了解を得ています.

当サイトが引用している著作物に対する著作権は、その製(創)作者・出版社に帰属します。
無断でコピー、転写、リンク等、一切をお断りします。

Copyright (C) 2001 books ruhe. All rights reserved.