オキーフの恋人オズワルドの追憶 上
著者
辻仁成/著
出版社
小学館
定価
本体価格 1600円+税
第一刷発行
2003/04
ISBN 4-09-342352-0
愛し合っているなんて陳腐な言葉は好みません。

愛するほど、交わるほど、人は心の暗闇に出会ってしまう。構想10年。執筆5年。辻ワールドが到達した未知なる文学アドベンチャー!!

 

オキーフの恋人

ぼくには人に言えない秘密がある。
誰にでも一つや二つは秘密があるものだが、ぼくの秘密を言葉で説明するのは非常に難しい。
ぼくにはぽくにしか見えないインナーチャイルドがいる。
いつからその子がいるのかは分からない、気がついた時にはすでに傍にいた。
時や場所を弁えず、少女はぼくの前に姿を現し、言いたいことを言ってはふっと消えていくのだが、それがぼくにしか見えないものだから、周囲の人間たちは、誰もいない場所に向かって喋っているぼくのことを、頭が疲れ切っているものと勘違いしてしまうのだ。
ぼくは彼女に、オキーフ、という名前をつけた。
これは飼い猫に、べートーベン、とつけるのといっしょである。
大好きな画家ジョージア・オキーフに因んだ。
本物のオキーフと、インナーチャイルドのオキーフとの間には何の関連性もない。
本物のオキーフはずっとぼくの憧れの的だった。
友達の少なかったぼくに、教師をしていた両親がオキーフの画集をくれたのが、彼女を好きになるきっかけであった。
毎晩彼女の絵を眺めているうちに、知らず知らず才キーフに恋をしていた。
オキーフのことを調べるようになり、実際に彼女が晩年を生きたニューメキシコのアキビウまで旅行をした経験もある。
ぼくはずっとオキーフの恋人になりたかった。
若い頃、彼女には二十歳も年上の素晴らしき伴侶、写真家のスティーグリッツがいた。
彼が死んだ後はニューメキシコの田舎町に移り住み、絵を描き続けて生きた。
彼女の画集を眺め、いつも想像をしたものだった。
想像は自由だ。
ぼくは孤独に生きるオキーフの傍にいて、彼女のために尽くしたかった。
忠誠心のある執事のように、彼女を愛したかった。
ぼくにとってはそれが愛の最も美しい形だと信じてやまなかった。
インナーチャイルドのオキーフはぼくが憧れ続けた現実のオキーフとは似ても似つかない小さな子供で、特に何か取り返しがつかない面倒事を引き起こすということはなかったが、様々な問題に直面しているぼくの前に現れては、悪戯をしたり、好き勝手にぼくの行動を椰楡した。
オキーフなどと名づけてしまったことに後悔をしたが、今更違う名前で呼ぶことも出来ない。
インナーチャイルドのオキーフはぽくが仕事をしている時なんかに現れて、机の上でごろごろとしている。
初めて恋人が出来て、セックスをしようとした時にも現れて邪魔をした。
小さなオキーフは少女のくせに、小さなペニスを持っていた。
それをわざと勃起させて、ぼくを困らせた。
誰にも言えない秘密である。



高坂譲の代理人から電話がかかってきた時は、編集部は校了の最中で、ぼくはがらんとした第十三編集室のフロアーで事務机に収まり、まさに高坂譲の原稿と向かい合っていた。
インナーチャイルドのオキーフが、遊ぼう、と言った。
ぼくは駄目だ、と怒った。
するとオキーフは、くそ、と怒鳴って小さなペニスを取り出し、原稿におしっこをひっかけた。
オキーフが暴れると決まって頭痛がした。
苛立ちの予兆のようなものだ、と最近薄々分かってきた
が、どうすることも出来ない。
アスピリンを飲んだのがいけなかった。
痛みがぼやけた分、意識も停滞した。
受話器の向こうから聞こえてくる代理人の声は、まるで遠い宇宙空間から届けられる時差の声。
お互いの声が重なり合い、譲りあい、黙りあうと、声と声の狭間に、微かだが、ざらついた電気的な雑音が居座った。
眠気も手伝って、頭の回転が鈍く、言葉が言葉としてなかなか脳裏に落ちつこうとしない。
先方の用件も、内容が突拍子もないせいでか、いつまで経っても伝達事項が一つの姿を象らなかった。
だから、と代理人は繰り返し、ということは、とこちらは返した。
ですから、と彼女が冷静な口調で続ければ、なるほど、とぼくは仕方なく頷いてみせた。
「失踪されたということですか」
意味の重大さを理解する前に、停滞中の脳は沈黙を埋めようとしたに違いないのだが、会話の前後の脈絡も曖昧なまま、口先から無責任な言葉が飛び出した。
「ある意味において、その通りでございます」
意味がようやく、落ちつくべき場所に定着すると、事の重大さに気がつき、今度は不用意に言葉を生み出せなくなって凝固した。
高坂譲の代理人の息遣いだけが、耳元をくすぐり、ぼくの視線は蛍光灯の明かりで浮かび上がるだだっぴろい空間を彷裡った。
深夜の二時を回っているというのに、第十三編集室には幾ばくかの人間が残って作業をしている。
ぼくのデスクは娯楽小説誌『小説物語』編集部の集団の中にある。
その隣に文芸誌『感情』編集部、更にその隣に単行本編集部、と各書籍の編集部が列を連ねていたが、校了を迎える『小説物語』の編集部だけは全員が居残って仕事に打ち込んでいた。
フロアー全体で二十人くらいは残っているので、人間の気配というものはそこかしこ、特に『小説物語』界隈には強く集まっているが、それぞれの編集者が意識の管を物語の中へと垂らしているせいで、椅子に残された肉体はまるで花の蜜を吸う蝶さながら、おとなしく、羽根は動かず休められたままであった。

(本文P.5〜8 より 引用)

 
 


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