贄門島 上
著者
内田康夫/著
出版社
文芸春秋
定価
本体価格 1600円+税
第一刷発行
2003/03
ISBN 4-16-321430-5
房総の海に浮かぶ美瀬島には「贄送り」の風習があるのか。謎に挑む浅見光彦に忍び寄る危機と驚くべき真相とは。傑作長編ミステリー。

房総の海に浮かぶ美瀬島には「贄送り」の風習がある?謎に挑む浅見光彦に忍び寄る危機と驚くべき真相とは!傑作長篇ミステリー。

 

二十一年前に父が聞いたという「死に神の声」の正体を探りに、南房総の小島を訪れた浅見光彦。豊饒の海に囲まれたのどかな島に、実は「生贄送り」の風習があると知ります。失踪、殺人、不審船――次第にこの地の暗部に触れていく浅見の身にも底知れぬ闇が迫り、やがて「生けにえの島」で、第二、第三の事件が……。
 悪夢の島か、地上の楽園か。歴史、伝奇、国際問題、そして人間の業。「週刊文春」誌上で百万読者を魅了した内田ミステリーの決定版、いよいよ上下巻一挙刊行です!

 

プロローグ

紗枝子は重苦しい夢を見ていた。
真っ暗な中に、ゆらゆら揺れる怪しいものの影がある。
いや、揺れているのは光なのかもしれない。
どっちにしても、形が曖昧でおぼろげな、得体の知れないものである。
呻くような、歌うような、忍び泣くような、声なのか物音なのかもはっきりしないものが、揺らめくものの向こうから聞こえてくる。
いきなり、大きな怒鳴り声とドスンと体に響く音がして、紗枝子は思わず目を見開いた。
仰向いた目の上の闇に、やはり光と影がゆらめいていた。
目覚めたのか、それとも、これもまだ夢のつづきなのか、紗枝子はよく分からなかった。
襖の隙間から隣室の光が漏れて、壁と天井に当たっている。
どうやらそれが夢に見た揺らめくものの正体らしい。
しかし、紗枝子が少し頭をもたげて、辺りの様子を確かめようとした時には、もう光は揺れていなかった。
光だけではない、あんなにはげしく聞こえていた物音も静まり返って、シーンとした闇の遠くから聞こえてくる、やわらかい波の音が、紗枝子の眠りを誘う。
紗枝子はじきにトロンと瞼を閉じた。
その時、「大丈夫かな」という、かすかな声が聞こえた。
「サッシーを起こしちまったかも……」
(正叔父さん)
ゆうべの寄り合いの席を仕切っていたのが正叔父であった。
今夜は特別なお客を迎えるとかで、いつもより陽気にはしゃいで、紗枝子の母が酒と肴の支度をするのを、邪魔にされながら手伝ったりしていた。
夕食の後、作文の宿題もすんで、居間の壁に凭れて、父と一緒にテレビを見ていると、正叔父は「サッシーは早く寝ろや」と追い立てるような手つきをして、言った。
紗枝子は正叔父のことはそんなに嫌いではないのだが、「サッシー」と言うのだけは許せなかった。
「やめて、サッシーって言わないで」と抗議すると、「あははは、分かった分かった」
と笑いながら謝るのだが、そのくせ、またしばらくして会えば、「サッシーちゃん、元気か」
と反省する気配がない。
その正叔父がもう一度「大丈夫かな」と言った。
ほんの少し間があって、母が小声で「大丈夫だよ、あの子は眠りが深いから」と、少し気掛かりそうに言うのが聞こえた。
(あの子って、わたしのことなんだ)
いったん眠りに落ちかけた紗枝子の意識は、ふたたび覚醒した。
たてつけの悪い襖の隙間から漏れる、上から下まで真一文字の光に、人影がさすのが見えた。
本当に「大丈夫」かどうか、確かめているにちがいない。紗枝子は急いで目を閉じ、眠ったふりを装った。
少し経って、薄目を開けると、人影は消えていた。
「ありがてえことだなあ」と、今度は祖母の声が聞こえた。
「うんうん」と応じたのは父の声である。
「みなさんのお蔭で安泰だ」と言ったのは、あれは確か、ことし喜寿のお祝いをした天栄丸のじいさまではなかったかしら。意識がしっかりしてくると、隣の部屋には家族だけでなく、かなり大勢の人の気配があることが分かってきた。紗枝子は布団から這い出して、寝ころがった恰好のまま、襖の隙間に目を当てた。思ったとおり、縦に長く細い視界に入るだけでも、ずいぶんの人数だ。おとなばかり、七、八人はいるにちがいない。おとなたちは輪を作るように立っている。足元のほうから見るせいか、ふだんよりも大きく、怪物のように見えた。優しいはずの母や祖母までが、顔つきがこわばって、何だか恐ろしげである。
父と正叔父と、それから後ろ向きで誰なのか分からないおとなが二人、何か畳の上にあるものを持ち上げた。
向こう側の、父と正叔父とのあいだには、天栄丸のじいさまの、前歯が欠けた間抜けな顔が覗いている。
じいさまは「ほれほれ、大事にな」と、小さな声をかけた。
四人がかりで持ち上げているのは、人形みたいな恰好をしたものだ。
腕も脚もダランとぶら下がって、浄清寺さんのお祭りに、みんなで担いで海に捨てる、藁づとで作った人形があんなふうだった。

(本文P.7〜10より引用)

 

 
 


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