かえっていく場所
著者
椎名誠/著
出版社
集英社
定価
本体価格 1400円+税
第一刷発行
2003/04
ISBN 4-08-774639-9
家族の30年 シーナ版小説の集大成 東京・自宅の屋上、沖縄のホテル、モンゴル、スコットランド世界各地で・・・。時を変え、場所を変え、考える様々な出来事。人生に訪れる幾多の邂逅と別離、歓びや悲こみ。 心模様を描きつづけた、私小説の決定版。

三十年住んでいた郊外の家を越すことにした。夫婦二人の生活。新しく住む都心の眺め・・・。時の流れの中で考えたこと、想うこと。変わるもの、変わらぬもの。「岳物語」に始まるシーナ版私小説の集大成。

桜の木が枯れました。
ほぼ三十年ほど住んでいた家を越すことにした。
東京の郊外。武蔵野と言われた場所であったが、今は住宅が建て込んでその面影はない。
結婚し、妻とここに住みはじめた頃、周囲は緑に色濃くかこまれていた。
すぐ近くにお嬢さん
が集まってくるので有名な女子大学があり、家の斜め前には背の低い櫟や小楢の繁る雑木林があったので私の住んでいる家にまで常に幾種類もの野鳥がやってきた。
しかもその雑木林には一時期、大きなオンドリが住みついていて、これが毎朝でたらめな時間にトキの声を上げる。
なんだか東南アジアの田舎の宿で目がさめるような気がして私はそのオンドリをひそかに愛していたのだが、近所の他の家からはどうも不評のようであった。
そのオンドリは、おそらくどこかの家で飼われていたのだろう。
逃げ出したか、捨てられたかだが、捨てられた公算のほうが強い。
その数力月前に私の子供たちの通っている小学校の前でヒヨコを売っている男がいたのだ。
一羽十円ぐらいのそれは子供の小遣いでも買えてしまう。
ただ可愛いというだけで買っていった子の家がすぐに困ってしまったのだろう。
ヒヨコはたちまち大きくなる。
やがて居丈高にあちこち歩き回るようになり、沢山の餌を食べ、早朝から大騒ぎする。
結局、隣の家と隣接する都会の家などではとても飼えないということになる。
どうにも困ってしまった親があるとき雑木林を見つけて捨てていったのだろう。
このオンドリが不人気なのは、彼の住み着いている雑木林の間の小道を歩いていく人を時折襲うからであった。
襲うといっても追いかけてきて噛で突っつくくらいのものだが、子供には危険でもある。
ある時誰かが呼んだ警察によって、結構な大捕り物となり、無念にも彼は”逮捕”されてしまった。
私はその捕り物の一部始終を窓越しに眺めていたのだが、なんだか実に悔しい気がした。
けれど、どうすることもできなかった。
五、六年もするとその雑木林も地主によって伐採され、後に建て売り住宅が並んだ。
その雑木林が消えた時の喪失感はオンドリが去っていった時以上に強烈だった。
大きな緑のカタマリが私の部屋の窓の風景からそっくり消えてしまったのだ。
その近くに点在していたいくつかの雑木林や原っぱもそれと同じ頃に急速に消滅していった。
私の家の周辺だけという訳ではなく、高度経済成長にのったやみくもな宅地造成の波に追われて東京周辺の緑が急速に消滅していった時代でもあった。
それは同時に私の二人の子供が急速に成長していく頃でもあり、もう休日に家族揃ってそういった近所の雑木林や原っぱに遊びにいく、ということもなくなっていた。
家は子供たちが大きくなっていくにつれて手狭になり、そのたびに増改築を繰り返していったので継ぎはぎだらけの、図体ばかりは結構大きな木造三階建てになっていた。
私はいたずらに昔を懐かしむ感傷的な人だ、と妻によくからかわれる。たしかにそうかもしれない。
妻と夕食の会話の折などに、そのようなことをしばしば口にしているからだ。
とくに庭の桜の樹が枯れてしまったときの私の樵埣ぶりは妻も驚くほどだったという。
その桜の樹は庭の真ん中に生えていて、樹齢二十五年だった。
娘の誕生祝いに植えたものだ。
いつのまにか大きな桜になっていて毎年春には沢山の花を咲かせた。
梢の先端が三階の私の部屋のベランダすれすれのところまで延びてきて、手をのばせばその花びらに触れることができるくらいになった頃、突然枯れ死した。
植木屋さんが調べたところ、犬を飼うために庭の殆どをコンクリートで覆ってしまったのがいけなかったらしい。大きく成長した桜の根がそれによってうまく呼吸ができなくなってしまったのだ。
犬の衛生のために庭をコンクリートで覆ってしまおう、と言ったのは私であった。
私の家の前には畑が広がっていたのだが、桜が消えて暫くすると、その畑の持ち主が亡くなり、莫大な額にのぼる相続税のために遺族がその土地をすっかり売ってしまった。
そこもたちまち建て売り業者のものとなり、その年の春から大がかりな宅地造成工事が始まった。そうして僅か一年たらずのうちに私の家の前にはいっぺんに十六軒の家が建ってしまった。

 

 
 


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