
一あの時僕はまだ、まるで考えてもいなかった。
君に施したあの実験のことを。
恋とも愛とも呼べない、あの許されない、悲しい実験と観察の日々を。
1
日向女子高校の校庭の上には、肌寒い灰色の空が広がっていた。
体育の教師が吹く規則的な笛の音に操られるように、ジャージ姿の生徒達が走っていく。
ピッピッ、ピッピッ、ピッピッ。
逸脱することを許さない冷たい音だ。
不意に、列の中を走る一人の少女が倒れ込んだ。
二年生の町田雛だった。
ぽんやりと虚ろな瞳は、アーモンドの形をしている。
貧血で倒れた雛が気がついたのは、保健室の簡易ベッドの上でのことだった。
どこかおどおどした様子で、雛はシーツを広げる。
隣りからクスクス笑う声が聞こえ、雛は上体を起こしながらそちらを見た。
同じクラスの工藤紅子だ。
紅子が欠伸をして隣りのベッドから起き上がる。
「初めて?サボり」
紅子にそう聞かれ、雛はうなずいた。
「そんなキョドってちゃダメだよ。ほら」
紅子はバッグからサソグラスを取り出し、雛に手渡した。
もうひとつのサソグラスを、自分がかける。
雛もそれを真似して、サソグラスをかけた。
「カメラ持ってる?」
紅子が聞き、雛は慌ててうなずき、鞄からデジカメを取り出す。
二人は体を寄せ合って、記念撮影した。
「変身」
紅子が言い、雛もぎこちなく微笑んだ。
友達になれるかもしれない、と雛は思った。
二人はその日一緒に下校した。
駅のレストルームに入り、私服に着替えた。
雛は鏡の前で、紅子の真似をして化粧をした。
真っ赤なルしシュを引き、付け腱毛に黒いライソをクッキリと入れる。
鏡の中のサイケデリックな人形のような顔を、雛は不思議な気持で眺めた。
紅子が最初に雛を連れていったのは、地下のクラブだった。
たちまち紅子は取り巻きに囲まれ、すると大きな声でこんなことを言った。
「一分だよ。一分で解けたらこの子、今晩ティクアゥトオッケー」
取り巻きの一人が、紅子の手からルービックキューブを受け取る。
「え?」
紅子の横顔を見ながら、雛はつぶやくようにそう言った。
「バカは嫌でしょ。心配ない。どうせ誰もできやしないよ」
雛は微かに苦笑しながら、うなずいた。
だが、金髪の男が言うのだ。
「これ知ってるよ。コツがあんだよな」
彼は素早く、ゴールドの面を合わせていく。
紅子がちらりと腕時計に視線を落とした。
男は、みるみるうちに完成させていく。
雛も紅子の腕時計を見た。
ルービックキューブの色が合わさっていく。
周りの男達はカウソトダウソを始めた。
テン、ナイン、エイト、セブン、セックス……。
雛は咄嵯に男の手の中のルーピックキューブを奪い取り、階段を駆けのぽった。
男達が非難する声や、紅子の呼び止める声が聞こえたが、雛は振り返らなかった。
雛がキューブを持って息を整えていると、紅子が追いついた。
「なんであたしに近づいたの?」
不機嫌そうに、紅子は言った。
おずおずと、雛は友達の横顔を見る。
「停学あけて出てきたら、いきなり友達になりたいたんてさ」
「ああ……」
「真面目ないい子チャンなんだろ」
雛は小さく首を振る。
「ウザいんだよね、正直。あたしこの店入るからね、ついてくるなよ」
紅子はそう言うと、店の中に戻って行った。
雛は繁華街を歩いていった。
このまま家に帰る気はしなかった。
それでは、何のために街に出てきたのかわからない。
自分自身のための小さな冒険は、まだ始まったばかりのはずだった。
夜なのに、街は明るかった。
ノイズと光と華やかな空気に満ちている。
光に吸い寄せられるように、雛はゲームセンターに入った。
UFOキャッチャーをやってみたが、ぬいぐるみを取ることはできなかった。
二階に上がると、客は一階より少なかった。
(本文P.7〜9より引用)
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